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国際的な評価という経験「新しい泉のための錬金術―作ることと作らないこと」(2)三木学

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左からドリュン・チョン氏、小崎哲哉氏、ヤノベケンジ

ULTRA GLOBAL AWARD 2017 Exhibition 12月5日(火)より | 京都造形芸術大学ULTRA FACTORY

 

ULTRA GLOBAL AWARD 2017 Exhibition「新しい泉のための錬金術―作ることと作らないこと」展では、先日、M+の副館長兼チーフ・キュレーターのドリュン・チョンさんと、小崎哲哉さんによる講評に加え、ドリュンさんによる最優秀賞の審査が行われたので前回に追加して報告しておきたい。ドリュンさんと小崎さんによる講評は非常におだやかながら、鋭い指摘が多数なされ、出品作家も大いに勉強になったのではないかと思う。学生や卒業間もないうちからこのような機会をもたせてくれるのは、贅沢というほかない。

 

また、最優秀賞を、国際的なキュレーターが単独で選ぶということは、非常に大胆でユニークな試みであり、先日の公開講評会のメンバーが、遠藤水城氏以外は、京都造形芸術大学で教鞭をとっており、作家の背景を知っていることから考えると、全くの外部者であるドリュンさんには人間関係や忖度が働かず、潔いものだったといえるだろう。後に述べるが、最優秀賞は関係者にとっても意外なものであったが、それが逆に国際シーンにおいてもリアリティのある出来事ともいえ、予定調和的ではなく個人的にはよかったと思う。

やはりある程度、内部事情がわかっていたら、ポジショントークになりかねないし、教え子の代理戦争のようになってはつまらない。美大の欠点は先生に似た作風で、先生より劣った作品を評価してしまう、無意識的な評価軸と縮小再生産の構造であり、そこから逃れるためには、全く関係のない第三者を持ってきた方がよく、ドリュンさんは国際的な視点と経験を併せ持つという意味で、最適な人材であったといえよう。

 

特にドリュンさんの指摘の中で、前回の講評会にも出なかった鋭い意見を下記に列記しておく。

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桑原ひな乃のプレゼンテーション。

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錨には溶接した真新しい鉄の跡が見える。

 

桑原ひな乃の作品《Anchor - 記憶の痕跡》 は、巨大な錨(いかり)を反転させて天井にぶら下げ、床面に鏡面を引いて、波底に沈んだ錨のように見せるインスタレーションであるが、錨に銀色の溶接跡がところどころに見える。そのことについて、意図的かどうか質問がなされた。

答えは、意図的ではないが、巨大な錨を運搬するのに、切断する必要があり、大学に運んでから溶接をして原状回復した後につりあげたとのことだった。ドリュンさんは、もしそれが意図的であるなら、やるなと思ったと言っていた。

個人的にも溶接跡が意図的であるなら、まさに切断された記憶を継いだと言えただろうし、産業遺産となったレディ・メイドとしての錨を切断し、溶接することで新たな価値を加えたということも言えただろうと思った。

陶磁器の世界でも、金継ぎなどをすれば割れた後にでも価値が出ることがある。それは西洋の陶磁器にはないことであり、小崎さんの指摘するように、利休(以降の茶道具)とデュシャンとの共通性を見出したと言えたかもしれない。デュシャンが移動中に割れた『大ガラス』を亀裂が残った状態で修復した行為も「金継ぎ」的と言えるし、本阿弥光悦の金継ぎや形に偶然性を活かした織部焼現代アート的な解釈もできるだろう。

今後、自分の個人史とはだけではなく、近大遺産の切断と溶接というのを一つの手法として取り組めば面白い成果が出るかもしれない。

 

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梶原瑞生のプレゼンテーション。小屋の中で流されるアニメーションには、オリジナルの言語によるナレーションがついている。

 

梶原瑞生の作品《メデュホドン高原から》では、アニメーションの字幕に、自身が考えた言語による聞き取り不可能なナレーションがついているが、そこにルールがあり、言語として成立しているのかという質問がなされた。ある程度ルールはあるが言語としては成立していないという回答であったが、これがエスペラント語のような近代的な創造言語や、象形文字も含めて自身が発案した言語であれば面白い展開になっただろう。
彼女のリサーチテーブルに、トンパ文字に似たオリジナルの象形文字が、アイディアスケッチとして描かれていたので、もう少し言語の起源を考察すれば面白くなると思えた。

言語自体が、世界の認識を司り、「言語が思考を決定付ける」(言語的相対論の提唱者のウォーフは「言語は認識に影響を与える思考の習性を提供する」としている)とする言語学の流れもあり、認識や価値にかなりの影響を与えることは間違いないので、思考の「創造」にまで視野に入れたデュシャンの探求の延長線上にあるものと言えただろう。

また、ユングの元型論に影響を受けたと言っていたが、キリコ風の人物や西洋風のお城(あまり遠近法はゆがんでいないが…)と、インド風の意匠といったイメージは、ややステレオタイプのイメージなので、自分のイメージソースを洗い出す作業を一度行ってもいいだろう。

 

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坪本知恵のプレゼンテーション。高さが均一で幅が広狭あり、バーコードのように見える。

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キャンバスがコードとすれば、拡大したら(近寄れば)文字が見えるというようにも読み取れる。

 

坪本知恵の作品《種》は、講評室でインテリジェンスがある、と指摘されていたものの、原風景としていた安藤正楽の石碑のエピソードと、作品との関連があまり見出されなかったことと、まだまだコンセプトが弱かったので選ばれることはなかった。

しかし、個人的にはバーコードのようにも見える大小の幅のあるキャンバス全体が、実際にバーコードとしても読み取り可能で、ステンシルでプリントされている滝口修造の書籍のコードになっていればかなり面白かったのではないかと思った。バーコードのような機械ではないと読み取れないコードに潜像している文字を引き出すというアイディアならば、社会的なコードに対する考察、コードに対する自己言及のような文脈でも読み取れただろう。是非、次回検討していただきたい。

安藤正楽の石碑のエピソードがあまりに興味深いので、作品よりもひっぱられたことは本人としても本意ではなかったかもしれないが、そのような素材を見つけることもなかなかできないので、今後、別の作品として展開することを期待したい。

 

私事であるが、安藤正楽が愛媛県宇摩郡土居町の出身で、土居町の日露戦争出征者の依頼を受けて石碑を頼んだのだが、その中に義理の祖父の名前が刻まれていることを発見した。確かに、義理の祖父は、日露戦争に出征しており、通信兵として従軍したことを聞いたことがあった。ただ、愛媛県は『坂の上の雲』で有名な、秋山真之秋山好古兄弟などを輩出しており、すっかり日露戦争に対して誇りに思っていると思い込んでおり、安藤正楽という当時では珍しい、非戦・反戦の人権主義者に石碑を依頼していたことは、個人史的な驚きであった。また、リサーチベースのアートのもたらす個人への影響ということを図らずも体験することになった。

 

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内田恵利の映像インスタレーション(一部)。エレベータの入り口に座り、自身の体で止まり、開いて閉じることが繰り返される。4面にプロジェクションされる短い映像クリップには、このようなある程度の身体的「痛み」を伴うものもあり、60年代の前衛的パフォーマンスやヴィトア・コンチ、ブルースナウマンなどの現象学的なビデオ・インスタレーションが想起させられるが、構図や衣裳などを含めて体系化できる余地を残していた。

 

さて、最終優秀賞は、内田恵利の《多分いつかおそらくしかしながら》と橋本優香子の《別の言葉で言い直す(うた)》 が競った上に、内田 恵利が選ばれることになった。この判断については、出品作家や講評者からも驚きをもって迎えられた。内田の選考理由は、「シンプルであり、様々な解釈が可能であること」、「自閉的な反復行為であるが、現代人のどこにも行けない孤独を表象しているようにもとれること」、「日本人で似たタイプが思いつかないこと」、「直観的に制作しており、今後の伸びしろを感じること」などであった。

もちろんどの作家もまだ若く未熟なところがあったが、自分が企画した展覧会に入れるとしたら、ということで内田恵利が選ばれた。

 

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橋本優香子のインスタレーション 。3人の台湾人にインタビューを行い、彼らから出てきた詩や歌などを、半透明な布に縫い込んだ。

 

橋本優香子の場合は、非常に真摯に制作しているが、アジアの作家でも(旧植民地などを含む)アイディンティティをテーマにしている作家は多く、その中で突出した作品ではないこと、調査した内容を表象として表せていないこと、などが差が出たポイントであった。

個人的には、3人の台湾人から印象的な詩や歌を引き出して、縫い込むのは面白いと思ったが、発話されることと記述されることが、文字を縫うという行為に上手くつながっていればよかっただろうと思う。また、インタビュー映像で、抽出された詩や歌が定期的に発話されたり、3つの布や糸を重ねたりつなげたりすることで、3つの世代の意識の共通点や違いなどを表していてもよかったのではないかと思った。どちらにせよ、布に文字を縫い込むという表現方法には、まだまだ探求の余地はあるだろう。

 

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最優秀賞を受賞した内田恵利(中央)

 

ドリュンさんはアートにおいては、表象が重要であることを審査発表後も、出品作家に伝えており、コンセプト倒れであったり、表象に至っていない表現については、評価が下がることをクリアにされていた。その観点から言えば、今回出品作家は丹念に制作に向き合い、調査もしっかり行ってきたが、消化不良のケースも見られた。制作時間の制限もあり、未消化な作家もいたと思うが、最終的にどのようなフォームに落とし込むかは共通した課題だろう。

 

前回の記事では、講評会の厳しい指摘を反映して、少し辛めの評価をしていたが、国際的なキュレーターである片岡真実氏による選抜が行われているので、そもそもみんな「何か」を捉えているのは確かである。

その鉱脈を様々な視点から発掘し、延ばしていければ、大きな飛躍ができるに違いない。それがデュシャン以降のパラダイム変換を作る錬金術になれば言うことはないだろう。是非それぞれの今後の活躍を期待したい。

 

 

shadowtimes.hatenablog.com

 

現代アートのゲーム・チェンジャーは生まれるか?「新しい泉のための錬金術ー作ることと作らないこと」三木学

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ULTRA GLOBAL AWARD 2017 Exhibition「新しい泉のための錬金術―作ることと作らないこと」
京都造形芸術大学ギャラリー・オーブ
会期:2017年12月5日(火)〜12月19日(火)
時間:10:00〜18:00
会期中無休
入場料:無料

 

今年は、マルセル・デュシャンが『泉』を制作してから100年になる。それに関連して、デュシャンをテーマにした展覧会が各地で開催されている。実質上、現代アートは、デュシャンが始めたといってよいだろう。デュシャンの本格的な評価が戦後とはいえ、デュシャンはそれ以前のアーティストの態度とはまったく異なる。デュシャンは、狭義の作ることを止め、観念的な操作でものの見え方を変えてしまうことに成功した。今日ではコンセプチュアルであることは、現代アートの前提条件になっている。デュシャンは、今風に言えば、アート界のゲーム・チェンジャーであり、パラダイム変換をもたらしたのだ。

 

京都造形芸術大学ウルトラファクトリーが、例年開催しているアート・コンペティション「ウルトラ・アワード」も、今年は「ウルトラ・グローバル・アワード」にバージョンアップして、森美術館チーフキュレーターの片岡真実氏が、キュレーション及び制作指導を行うという新体制の下、「新しい泉のための錬金術ー作ることと作らないこと」をテーマに、展覧会が開催されている。若手作家たちが、現代アートにおける作ることと作らないことの意味を改めて考え、デュシャンパラダイム変換して以降、100年の現代アートの歴史を振り返りつつ、今日における『泉』やそれを生み出す錬金術(制作手法)を試みるという趣向になっている。

 

キュレーターは、アーティストをオーガナイズするという意味では展覧会の共犯者であり、同時にセレクトするという意味では評価者でもある。したがって、キュレーターが制作指導を行うというのは一見、合理的でもあるが、キュレーターの枠内でアーティストを判断し、抑えてしまうという面もあり難しい点もある。とはいえ、実質現在のアートワールドでは、キュレーターとの共同作業が必須であり、彼・彼女らにプロポーザルを出して、制作が始まることが多いことを考えれば、既存作品ではなく、テーマに応じた提案を行い、そこから制作指導をしながら作り上げる、ウルトラ・グローバル・アワードは、現在の美術大学の教育の中では、かなり今日的で実践的であるといってよい。

 

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左から片岡真実、後藤繁雄浅田彰やなぎみわ遠藤水城ヤノベケンジ

 

例年、浅田彰遠藤水城後藤繁雄やなぎみわ椿昇名和晃平などの、第一線で活躍する批評家・編集者・キュレーター・アーティストといった違う役割を持つアートワールドのプレイヤーによって講評が行われ、最優秀賞が選ばれていたが、今年は、M+副館長兼チーフキュレーターのドリュン・チェン氏が、単独で最優秀賞を選ぶことになっている。遠藤水城を除いて、京都造形芸術大学で教えている教員であることを考えれば、出品作家の作風や背景を知っており文脈を補完してしまうので、最優秀賞を切り分けるというのはよいアイディアであるといえるだろう。

 

今年は、そういう経緯もあり、展覧会初日に、浅田彰遠藤水城後藤繁雄やなぎみわの講評会が開催された。賞とは関係なくなったとはいえ、国内外で実践経験があり、幅広い視野を持つ彼らに講評されることは、出品作家にとって貴重な経験であることは変わりない。時に辛辣とも思える言葉が飛び交うが、授業料を払っている学生たちに忖度なし、ガチンコで取り組んでいることの証明でもあり、オーディエンスにとっても大いに役に立ち、一つのエンターテイメントのようになっていたのが印象的であった。また、昨年までとは違う展示の特徴は、片岡氏の制作指導によって、制作前にリサーチが行われており、作品の思考過程がわかるように、リサーチ・テーブルが置かれてることである。それが作品に厚みをもたらしていることもあるし、作品との関連が唐突で混乱をもたらしている展示もあり、サーベイのアウトプットに対するアーティストの自覚度を示す指標になっていた。

 

京都造形芸術大学の学生・院生・卒業生70名の応募の中で選ばれた10名がどのような作品であったのか少し説明していこう。

 

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小野 由理子
タイトル:《お供え》
制作年:2017
素材:綿布、糸

小野由里子は、もともとアパレル関係で勤めた後に、自分のブランドの展開とともに、現代アートの作品制作にも取り組んでおり、ファッション、衣服の形態を保持しつつ、そこにメッセージを込めるという作風になっている。

今回は、縫うことの根源を問い、そこにある原始的でシャーマニックな要素を調べた上で、戦前の千人針にいきついた。さらに、パンテオン神殿と女性の衣服の象徴であるスカートとの形状的共通点を見出し、ドーム型の天井となるような大きなスカートを作り、そこに様々な神獣などの意匠を、赤い糸で縫い付けて宗教的空間を作り出した。

しかしながら、千人針は戦意高揚に使われ、国家的な動員の要素にもなった過去があり、危うい宗教性・民俗性を無批判に展開していることへの懸念が、講評者から指摘された。そもそも千人針は、日露戦争では非科学的で忌避された行為であり、そこには弾に当たらない、あるいは徴兵されないという、非戦的な要素があったものが、無謀な太平洋戦争になって、むしろ積極的に動員の手段になったことは興味深いので、デュシャンとの関係を考えれば、そのような竹槍と並ぶ手仕事の持つ危うさや滑稽さこそを取り上げるべきだったのかもしれない。例えば、手縫いに見せて、すべて工業製品を貼り付けただけで、そこに感じる宗教性は錯覚であったというような…。

あるいは、スカートの中に入ることで、デュシャンの『遺作(『(1)落下する水、(2)照明用ガス、が与えられたとせよ』のような覗き見的な構造を作って、視線の問題を扱ってもよかったかもしれない。

白い布地に赤い糸の組み合わせは、千人針のように小さく凝縮していると見た目にも呪術性を感じるのかもしれないが、ギャラリーの大きさと比較すればスカートの大きさも中途半端で、図柄も小さく間が抜けているのでスケールメリットが感じられない。本来はスカートが大きくなっただけで、縮尺の違いで感覚がズレる効果があるはずである。

あるいは、色を反転させ、スカートを真っ赤にして、白い糸で縫い付けた方が、インパクトはあったかもしれない。単純なことであるが、衣装という身体性から離れた巨大さを、どのようにコントロールするかということから考えていみた方がいいだろう。

また、小野はスカートに人の動きを描き、ゾートロープに展開できそうな作品を作っていたので、まずは『泉』以前の錯視的なデュシャンの試みを学んでみたらどうだろうか?ジェンダーと宗教性を扱うのには、まだまだ手に余るという気がした。

 

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長尾 鴻平
タイトル:《untitled (monolith)》
制作年:2017
素材:顔料、岩絵具、砂、膠、綿布、パネル

長尾鴻平は、星座をモチーフに、巨大なキャンバスに日本画の光輝性のある白い顔料を全面的に塗った後、ある星座を点と線で描いた。

日本画の鉱物的な顔料の凹凸、時間がたちまだら模様になったため抑揚ができた平面、巨大なキャンバスは十分迫力があって面白いのだが、星座を看板のサインのように単純な丸と線を引いているため、そちらの方に知覚と認知が引っ張られて、地がペラペラの平面にように見えてしまっているのが残念であった。

天体と洞窟などの関係などリサーチしていたのだが、なぜ白なのか?星座を連想させるのに黒は単純すぎるにせよ、白の必然性はいまいちわからない。また、そもそも星と星を恣意的に結んで星座は作られているが、結ばれた星の距離は何光年も離れていて、その膨大な奥行きとは無関係に、認知が生み出す図形の平面性が面白いとは思うし、作家本人もそのように考えていると言っていただけに、上塗りして単純化した星座は蛇足に思えた。もう一枚レイヤーを重ねるにせよ、存在しない補助線を知覚的に見せるようなやり方があっただろう。

また、星が恒星の光であり、光源であることとは逆に、絵画が反射光で見えており、ザラザラとした表面をもっていることを考えれば、洞窟のように触覚的なアプローチへの言及があってもよかったかもしれない。

 

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石黒健一
タイトル:《TAUTOLOGY》
制作年:2017
素材:単結晶シリコン、黒曜石、ほか

 

石黒健一は、指を事故で切断しながら、創造的なアプローチで新たな演奏法を確立した、ブラック・サバスのギタリストのトニー・アイオミと、2000年代にアマチュアの考古学者として活躍し、「ゴットハンド」と呼ばれ、次々と歴史的な石器時代の遺跡を発掘するも、自分が埋めた偽物であることがスクープされ自ら指を切り落とした藤村新一に、欠損した指と、偽物の中に秘められた創造性を見出し、指が切断された手の像を黒曜石で作った。

黒曜石は矢じりやナイフなどに使われた代表的な石器の素材であり、日本でも後期旧石器時代から使われている。古代のナイフを見つけるために嘘をつき、最終的に自分の指を切ることになった藤村のことを思えば興味深い。捏造にも創造性があるのは確かであるし、彼が歴史に介入して偽史を作ったことを考えれば、作る歴史を転覆したデュシャンへの言及とも言えるかもかもしれない。

また、それと対比させて、タスマニアで発見された人類最初期の礫器(打製石器)オルドヴァイ石器をモチーフに、現在社会で広く使われているシリコンを使って、偽の石器を作り対比させた。

展示方法が、インスタレーションのようになっており、暗い部屋の中で発掘現場のような空間を構成し、割れたモニターを台座のようにして、2つの作品を左右両極に離して置いているのだが、少し過剰な演出であったかもしれない。講評者からも非常に興味深いが、要素が多すぎると指摘されていた。

もう少し博物館的な方法で、作品自体を巧妙な偽史の一環として展示するなど、マルセル・ブロータースのようなアプローチでもよかっただろう。とはいえ、真実と嘘の境界、偽物の創造性は非常に今日的であり、可能性を感じる作品であった。

 

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佐貫 絢郁
タイトル:《 35.0367416
135.79265140000007》
制作年:2017
素材:壁面、布

 

佐貫絢郁は、壊される予定の学舎の壁に描かれてあった、ドラゴンボールのキャラクターの落書きを下絵に彫り、巨大な版画に仕立て上げた。さらには、下絵である絵を、四角形に切り取り、壁ごと持ち出してインタレーションにしている(四角形といっても壁を抜く際に、切り取ることが難しくドリルのような円形になる器具を使ったため、パンチでくりぬいたようになっている)。

版画となった落書きは、転写が繰り返され、そこにドラゴンボールのキャラクーを見出すのが難しいくらいになっているのだが、落書きを版画にしたり、壁をぶち抜くプロセスを撮影したメイキングムービーは魅力的な映像になっており、講評者の大勢もそのように感じたようであった。

とはいえ、都市や建築への介入として、建築に穴や亀裂を入れたゴードン・マッタ=クラークやグラフティを使って、都市や美術館に介入しながら社会的・政治的風刺を行うバンクシーとは違い、そこに空間、政治、美術制度への介入という志向性は見られず、似て非なるものになっている。取り壊し予定の美術大学の壁以上の意味を見いだせないのが残念なところである。

今後、佐貫が手法以外にどのような社会的な関心を持つかによって、本作の意味合いも変わってくるだろう。

 

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桑原ひな乃
タイトル:《Anchor - 記憶の痕跡》
制作年:2017
素材:鉄、アクリルミラー

 

桑原ひな乃は、自分のルーツである漁村に打ち捨てられていた、巨大な錨(いかり)を吊り上げ、床面に鏡をはって、鏡の中を見るとあたかも水底に、錨が降りているようなインスタレーションに仕立て上げた。

デュシャンが使用した工業製品のレディ・メイドの規模の大きなもの、という趣であり、便器や自転車の車輪、ボトルラックのように、ギャラリーで展示台に置かれると彫刻的アウラを帯びてくる。さらに、天井に反転させてつり上げ、床に鏡を置くことで、再反転させて鏡像を正しい天地にしているわけで、手法も凝っているといえるし、スペクタキュラーな演出としては成功しているだろう。

とはいえ、リサーチの結果、水産業を営み繁栄していた桑原家のルーツを知り、家系的なアンカーのような位置づけにもなっていたこともあり、レディ・メイドというよりは、「私の家系・家業の思い出」というような意味合いが強くでていた。

デュシャンはレディ・メイドの私的記憶や美的価値も否定しているので、錨自体の美的価値や存在感、家系・家業の思い出の表出が、作品の動機であるならば、退行しているといえなくもない。

作家自体は、個人的な記憶や美的価値だけではなく、産業転換の末に無価値になった物の芸術的転用を考えているようだが、近代産業遺産は総じて、日常的な存在でなくなった結果、歴史的価値と芸術的価値に転換されるものなので、珍しい行為ではない。3Dスキャニングで記録し、発泡スチロールで再現して、まったく軽いものにしてしまうなど、記憶の重みを無化するくらいの工夫があってもよかっただろう。

 

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梶原 瑞生
タイトル:《メデュホドン高原から》
制作年:2017
素材:アニメーション、木材

 

梶原瑞生は、移動から定住の変化というテーマを、小さな木造の家と、内部に投影する映像によって表現していた。会期中には、観客に小さな家に入ってもらい、アニメーションの上映時間中、作家が引っ張って移動させるパフォーマンスが行われるという。絵心があり、ヘタウマなアニメーションもよくできているが、残念ながら、関心が私的な領域に留まっており、あまり社会性が感じられない。

講評者にも、道端で紙芝居のような形態で見せるのなら問題はないが、近代以降の展覧会という開かれた場で見せるのは難があると指摘されていた。

付け加えるなら、かつての紙芝居のように路上や公園で見せるならば、美術館やギャラリーのような鑑賞空間ではないためもっと公的であるし、さらに子供たちを惹きつける物語やエンターテインメントが必要であり、近代以前の見世物小屋としても成立させるのは難しいだろう。

このような私的な領域にとどまって表現を続けるタイプは、まずは展覧会という私的な発露がある程度許される場所ではなく、エンターテインメントの場で受けるかどうかやってみた方がよいと思う。そうすれば初めて、自分以外の他者の眼差しの厳しさに出会うはずである。

それができた上で、束芋のような、アートとして、社会批評をともなったアニメーションを作るか、エンターテイメントとして展開するか考えればよいだろう。

 

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山本 昂二朗
タイトル:《OLYMPUS21,230》
制作年:2017
素材:木材、巻尺

 

山本昂二朗は、太陽系で一番高い山である約2万メートルの火星のオリンポス山の長さを身体化するために、2万メートル巻尺を使い、約8mの木組みのタワーに巻きつけた。

スケールアウトした大きさを、生身の身体を使って、バカバカしく表現するというのがそもそも山本の関心のようだが、一見、無造作に作られた木組みに巻かれた巻尺は、黄色と白、文字がある種のリズムを形成しており、模様になっているところが面白い効果を出していた。

デュシャンのメートル原器をモチーフにした『3つの停止原理』を援用しているとも思えるし、それまでに身体の延長としての縮尺ではなく、「真空中で1秒の 299792458 分の1の時間に光が進む行程の長さ」という物理的な理念で作られたメートルや、到達不可能な火星のオリンポス山という半ば空想的な存在を、自身の身体で介入するというのは面白い試みだと思えた。

ただ、表現の方法について、あまり深く意識化できておらず、それぞれの素材にもう少し意味付けをもたせられるようになった方がいいだろう。また、2万メートルという長さも、垂直であれば高いが、水平では20キロ程度のもので、歩くこともできる。

最近ではGPSで絵を描くことできるので、リチャード・ロングのように歩いて、世界各地で2万メートル尺を作るということもできるだろう。考えていることが単純で一発芸的なものなので、現代アートではなくてもやってしまう人もいるだろうから、アートとしての文脈をいかにつけていくかということを考えた方がいいと思えた。

 

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橋本優香子
タイトル:《別の言葉で言い直す(うた)》
制作年:2017
素材:ビデオ(3面)、台湾の糸、布

 

橋本優香子は、台湾人が持っている日本語・日本に対する距離感を示すため、日本語を使うこのできる世代の異なる3人の台湾人のインタビューを行い、それぞれの意識の違いを明らかにした映像作品を制作した。また、彼らの違いを表す言葉を抽出し、刺繍に縫って展示した。刺繍に縫われた文字は、壁に写った影で読むことが意図されているが、判読するのは難しい。

ただ、3人の選び方は恣意的にすぎないし、最終的なアウトプットも、なんとなく自分がしてきた手わざに回収されており、調査を経た上での言語・圏の持つ、想像の共同体の強さやその綻びのような、断絶がクリアに見えないのがもどかしい。

インタビューを書き起こした取材記録や調査は非常に丁寧に行われており、生の素材の方が魅力的だと講評者には指摘されていた。そして、誠実に対象と取り組んでいることにはある程度の評価を受けていた。しかし、誠実さがつまらなさになってしまっては身もふたもないし、素材を活かした料理ができない状態では意味がない。

リサーチベースの作品の場合、対象が魅力的すぎると、あれもこれもと、からまった状態で、浮かんでこれないようなところがある。作家の資質が真面目だからこそ、もう一度、関心や明確に表したい亀裂は何か、対象から離れて考えてもよいように思った。その意味では、読めない刺繍は、作家の現状を表しているようにも思える。

アーティストは勉強せず、もっとめちゃくちゃでいい、というような講評者の発言もあったが、生真面目でユーモアがなくなるようなタイプにとってはその通りだろう。アーティストのサーベイに期待しているのは、普通の研究では取り上げられない、思わぬ角度による発見であり、学術的な精度ではない。リサーチベースで資料展示が氾濫する昨今のアートワールドであるが、学術論文としてもアートとしても成立しないような自由研究にならないように気を付けた方がいいだろう。

 

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内田 恵利
タイトル:《多分いつかおそらくしかしながら》
制作年:2017
素材:ビデオ

 

内田恵利は、4台のプロジェクターにそれぞれ、自分がパフォーマーとなって、動きはあるが進まない反復行為を映し出して、不条理な状況を映し出している。いかにも思わせぶりで、ベケット的な不条理劇や、ヴィト・アコンチのような、パフォーマンスを連想しないでもないが、作家自身はまったくそのような背景を持たない。

政治性、身体性の切実さが感じられない、安全圏の中で個人的な妄想を投影したくだらない行為、というようにしか読み取れず、しかもそれが外れてもいないところが悲しいところであった。

昨今YouTuberならもっと受けることは考えるし、不条理を見せるためには、それ以上に深い思索と、身体的訓練や冒険があって初めてユーモアになるし、アートにもなる。ネタのチップス的な方法はそろそろ卒業し、反復するのをやめて、前に進む機会にした方がいいだろう。

その上で少しフォローすると、先行のアーティストのパフォーマンスと似ているところはいろいろ見出せるのと、なんとなく映像のフレームに作家の志向性、美学がうかがえるところがあり、自身でもう少し調べて、通底するテーマを見出せば、次にやるべきことが見えてくるかもしれない。

 

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削り取られた安藤正楽の碑文

 

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石碑と隣に置かれた復刻された碑文
 

 

坪本 知恵
タイトル:《種》
制作年:2017
素材:油彩、木材

 

坪本恵理は、愛媛県四国中央市(旧宇摩郡)土居町の出身で、近所に建てられている日露戦争記念碑の文字がごっそり削り取られ、文字部分だけが隣に復刻された奇妙な石碑を見て育った。それは土居町出身の明治の人類学者、安藤正楽の碑文を元にしており、日露戦争後に出征した町民に請われて書いた碑文である。反戦・非戦の人権主義者であった正楽は、「愛国忠君」の思想こそが誰もがよくないと考える戦争に向かわせるものとして批判する内容を込めために削り取られた上に、本人も投獄されるきっかけとなった。復刻されたのは、平成5年のことであり、ほんの20数年前までは何が刻まれているかわからなかった。

作品は、安藤正楽の碑文の一連の経緯をヒントにしつつ、デュシャンとも交流のあった、日本のシュルレアリスト、詩人の瀧口修造が夢について書いた文章を、プリントしてステンシルにし、塗りこめている。灰色に黒字で刻印されおり、石碑のような重厚さが感じられるし、奇麗な仕上げになっている。ただ、文章はところどころ黒でつぶれ、ギリギリ読めるという程度であるが、内容にほとんど意味を求めていないため、まさに意味をなさないものになっている。

安藤正楽の石碑の持つ政治性・社会性・歴史性、あるいは滝口修造の持つ政治性・社会性・歴史性が骨抜きにされ、言葉遊びのように使われているのが残念であった。ダダのような言葉遊びすら、戦争というもっとも不条理な出来事を反映したものだということを考えた方がいいかもしれない。ステンシルにするくらいなら、もっと素直に石碑を版にして、再掲示した方が面白いと思ったが、政治的問題に関心があるわけではないようで、坪本に限らず日本の若いアーティストに見られる、政治回避の志向は安藤正楽が生きた時代への回帰を思わせられる根の深い問題に感じた。

 

さて、全体の感想を言えば、キュレーターの指導によって、関心やサーベイのレベルが引き上げられ、ウルトラファクトリーのサポートによって見せ方の完成度が飛躍的に上がっているがゆえに、作家のコアな関心や技術の強度が逆説的に明らかになっていたといえる。表現技術もさることながら、昨今のアートワールドでは、アートヒストリーのみならず、社会や政治、地域の問題を避けて通ることはできないため、それぞれがもっと向き合わなければこの上には脱皮できないと思えた。

本展のように、背伸びし、宙づりになった状態で、さらに根をはっていけるか、あるいは崩れてしまうかは、作家次第といったところだろう。結局のところ自力のある作家は残るということだが、一度このようなフレームアップされた展覧会を体験すると、自ずと自分のやらなければならないことが見えてくるだろう。自分探しを卒業し、グローバルなアートワールドを見据えるのには絶好の機会であり、この中から「新しい泉」を生み出すゲーム・チェンジャーが輩出されることを期待したい。

 

自然体のグラン・ジュテ(跳躍)「ULTRA GIRLS COLLECTION」三木学

hotel-anteroom.com

ULTRA x ANTEROOM exhibition 2017 「ULTRA GIRLS COLLECTION(ウルトラ・ガールズ・コレクション)」

会 期:2017年7月27日(木)ー 8月27日(日)
会期中無休・入場無料 
営業時間:12:00-19:00
トークイベント&レセプションパーティ
ゲスト:清川あさみ(アーティスト)聞き手:ヤノベケンジ(美術作家)
日 時:7月27日(木)18:00-20:00
会 場:ホテル アンテルーム 京都 GALLERY9.5

 

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清川あさみをゲストに迎えた出品作家たちとのトークイベント

 

7月27日(木)からアンテルーム京都で「ULTRA GIRLS COLLECTION(ウルトラ・ガールズ・コレクション)」が開催されている。アンテルーム京都は、ギャラリーを併設し、関西において、アートを積極的に展開するホテルの先駆けとして、様々な企画を行っている。昨年には、名和晃平蜷川実花など第一線で活躍するアーティストから若手まで、各部屋に作家の作品を設置する大規模な改修を行った。なかでも、「ULTRA x ANTEROOM exhibition」は、京都造形芸術大学の共通造形工房ウルトラファクトリーとの共同企画として、2014年から開催されており、今年で4回目となる。

 

3回目までは、ヤノベケンジ名和晃平やなぎみわなどを筆頭に、ウルトラファクトリーに集う世界的に活躍するアーティストや気鋭のアーティストの作品を一堂に会する顔見せ的な展示が主であったが、今年は、これから台頭する若手女性アーティストを紹介する展覧会へと舵を切り、教育機関としてのウルトラファクトリーのある種の成果発表となった。ウルトラファクトリーも2008年に設立して10年、実践的な工房として、国内外の芸術祭には欠かせない存在になりつつあるが、そろそろ次世代のアーティストを輩出する段階にきている。

 

ウルトラファクトリーのディレクターであるヤノベケンジが選んだ作家は、井上亜美、浦田シオン、小野由理子、長尾恵那、成田令真、油野愛子の6名、ほとんど90年代生まれで、偶然、全員が女性であったこともあり、「ウルトラ・ガールズ・コレクション」と銘打たれたという。そこにはウルトラファクトリーのガールズ、そしてウルトラ・ガールズ(超越した少女たち)という二重の意味が含まれている。もちろん、ファッションブランドの紹介ではないし、「少女性」を打ち出している作家はいないのであるが、女性ならではと思える共通性も見えてくる。

 

初日のオープニングトークのゲストであった清川あさみヤノベケンジ、出品作家のトークイベントでは、清川あさみがホストとなり、個々の作家のプレゼンテーションと繊細な対話がなされ、「ウルトラ・ガールズ」の魅力がつまびらかにされた。清川あさみは、言うまでもなく、女優の写真に刺繍を施す「美女採集」やNHK連続テレビ小説『べっぴんさん』のオープニング映像のアートディレクション、そして本展の引用先ともいえる「東京ガールズコレクション」の今年度のアートディレクターを担当するなど、幅広いシーンで活躍しているアーティストである。

 

清川あさみは、若手女性アーティストの講評をする機会ははじめてのことらしいが、キャリアのあるアーティストの立場からではなく、同じ女性としての目線で作家たち過去作品まで遡って個々の着眼点に注目し、共感を持ちながら語りかけていた。通常のアート系のインタビューなどではなかなか聞き出せない細かな心情や工夫を引き出していたのが印象的であった。清川あさみが引き出した作家たちの共通点を、あえていうならば、「詩情」と「小さな物語」、「日常生活の重視」といえるかもしれない。ではそれぞれの作品を見ていこう。

 

生活の中の狩りー井上亜美

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 井上亜美《猟師の生活》2017

一番の注目株は、来年開催されるシドニービエンナーレに最年少で選ばれた井上亜美だろう。井上亜美は、宮城県出身で祖父が猪猟をしていたが、東日本大震災福島第一原発事故により、食用ではなく間引きだけの猟になったことで猟師を辞めたことを機会に、「自然と人間」の関係を再考するために自ら猟師の免許をとり、狩猟をテーマに映像作品やインスタレーション作品などを制作している。

 

そのスタンスは、フィールドワークなどの参与観察に近いが、さらに踏み込み猟師として生きる中で起こる自身の「内的変化」を表そうとしているといえる。宮城や横浜などでも猟をしていたが、現在はスタジオのある京都を中心に猟をしており、今回は京都の猟を撮影した作品《猟師の生活》を発表した。

 

《猟師の生活》は、京都で実際行われている「巻き狩り猟」に参加し、タツマ(射手の待ち伏せ場所)で待っている自身を固定カメラで撮影する様子を中心に編集された映像作品である。「巻き狩り猟」では、ほぼ陣形が決まっており獲物が通る幾つかの場所が、「タツマ」に設定され、獲物が通るまで延々と待つことが求められる。「獲物を待っている間は、動いてはいけない。話してはいけない。鼻をすすってもいけない」と教わるらしく冬場に2時間同じ場所で待つこともあるらしい。

 

それはまさに自然と同化することであり、我々が「狩り」で連想する「追う」イメージとはほど遠い(勢子の場合は猟犬とともに追うことになる)。もちろん猟であるので殺傷された鹿を犬がくわえたり、川で洗われたりする場面もあるが、大半は井上が山の中で銃を持って佇む静かな風景が映し出される。その佇まいは、狩猟というより釣りに近い。井上の意図は、まさにそのような猟師のリアルな生活の描写にあるだろう。

 

そのような長い沈黙とは真逆に、獲物である鹿が現れたときは、銃口を向けて引き金を引き、極度な緊張状態を強いられる。鹿は音がするとそちらをじっと見る習性があるしく、見つめ合いながら殺傷しなければならないという。この作品では、鹿を狙う井上と、井上を狙うカメラが二重構造になっており、カメラの暴力性によって銃の暴力性を露にしているといえる。しかし、一方で映像による狩猟の描写について限界も感じており、同時期に開催される展覧会では映像以外の方法で狩猟を記述する試みを行っているそうである。

 

おそらく井上が勘づいているように、猟師の頭の中にあるジオグラフィックで心理的なイメージは、平面的、映像的なものではないだろう。また待つ時間感覚も打つ時間感覚も一定ではない。映像という外面的かつリニアな描写ではない方法で今後《猟師の生活》をどのように描き出せるか、自然と人間の関係を表せるか、大きなテーマであるが期待したい。

  

日常のおかしみー長尾恵那

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《今日は三つ編み》2017

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《grand jete》2016

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《普通のクローバー》2017

 

長尾恵那は唯一80年代生まれの作家であるが、ウルトラファクトリーのテクニカルスタッフで木彫を専門としている。日常生活のささいな出来事を、ユーモラスに描き出すことを特徴としており、本展では3つの小品を出展している。制作期間は本展が決まった1カ月弱らしく、小さいながらもそれぞれが精巧に作られており、力のある作家でることがわかる。

清川あさみに、すべての作品を一度に見て脳の中を覗いてみたいと言われていたが、1つ1つの作品に小さな物語とユーモアがあり、話を聞くと余計にクスッとしてしまう。《今日は三つ編み》は、三つ編みの少女の頭像であるが、なぜだか結った髪が太い。普通に考えればプロポーションの間違いだが、作家自身の髪が多く太い三つ編みになることがモデルだという。

 

《grand jete》は、バレエの股を広げた跳躍のことだが、なぜか左手にフライパンを持っている。非日常的な世界への脱皮ではなく、あくまで日常の中での次のステ―ジへのジャンプであり、作家が大切にしている価値観がよくわかる。

 

《普通のクローバー》は名前をだけでも笑えるが、幸福の象徴である四葉のクローバーではなく、三葉のクローバーを指でつまんでいる手の彫刻である。これもまた、日常そのものの肯定とも捉えることができるだろう。一つ一つに「詩情」と「小さな物語」が含まれている典型例であるといえる。

 

長尾自身は、「ウルトラ・ガールズ・コレクション」の出展に際し、女性的なものを意識的に遠ざけていたが、今回の展覧会タイトルに即して、改めて考えて作り出した作品だという。それが図らずも長尾の持つ「少女性」をうまく引き出す機会になり、多くの女性に共感が得られるものになったと思う。本展が制作におけるターニングポイントになるかもしれない。

 

 影のざわめきー浦田シオン

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《翳りに潜む》2017

 

浦田シオンは、存在の痕跡をテーマに、円形のガラス板にヤモリを彫り、壁面に影が浮かび上がる作品を制作した。浦田は昨年のウルトラアワードで、政治的なデモの音声を加工し、スピーカーの上に透明なシートを張って水を置き、音が強くなると水しぶきが跳ね上がる作品を制作しており、ポリティカルな問題意識を背景に持ちつつ、影や無意識の存在を表象する作品に転化させているといえる。

 

ガラスなどにヤモリが貼りついていて、ぎょっとした経験を持つ人も多いだろう。何日も同じ場所に貼りついているので死んでいるのではないかと思うくらいである。しかし、夜行性であるため、昼間は物陰に潜み、夜になって昆虫の集まる外灯の周辺などに現れるので、実際は移動を繰り返しているのだろう。まさにヤモリ自体が影のような存在である。

 

ヤモリは、不快な生き物として扱われることも多いが、害虫を駆除するため、漢字では「守宮」とも書かれ縁起のいい動物とされることもある。また、蛇のように尾を自切して、再生することもできるので、人間や文化の再生を託すこともできるだろう。

 

光を当てることで、ヤモリが壁面に浮かび上がり、本当のヤモリのようぎょっとするような驚きを与えることができれば、もっと効果的であろうと思う。また、色彩が不得意で影に注目したというような発言もあったので、日本の陰影文化などをもっと考察して、歴史や文学などのモチーフとからめて多層的な意味を持たすというのも手かもしれない。そして、現代の社会だけではなく、歴史に潜む闇や影をうまく取り込むことができればより面白い展開ができるのではないかと感じた。

 

メディアとしてのスカートー小野百里

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 《circular skirt》(2011)

 

小野百里子は、アパレル会社勤務を経て、自身の洋服づくりとともに、アートとしても展開している。シルクスクリーンで刷ったスカートには、「マイムマイム」や「水泳」など、見ていて楽しい独特なキャラクターが描かれており、スカートを履いている姿を想像しても面白いと思える。

 

フェナキストスコープ(驚き盤)のように少しずつ動きを変化させ、スカートをはいてて回転すれば、キャラクターが動き出すような仕掛けがあれば一層効果的だっただろう。同じくスカートの刺繍作品も1点出品されており、スカートを平面と立体の中間的メディアとして扱っているところに特徴がある。

 

次回は、巨大なスカートを制作して、天井画のように下から覗いて絵を見ることができる作品を構想しているとのことで、スカートのメディア性を拡張していることが伺える。逆にランプシェードのような「小さなスカート」があってもいいだろう。

 

日本人ではあまり使わない色彩なのでそのことを確認したら、大阪の難波近くで生まれ育ったが、フランスなどのヨーロッパの色彩に憧れ、取り入れてきたということで謎が解けた。テイストからいっても、大正時代の銘仙の配色や竹久夢二のような作風を取りいれ、着物にアプローチしても面白いと思った。

 

日用品のドラマ化ー油野愛子

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《viva La viva》(2017)

 

油野愛子は今回、ロンドン留学中で唯一出席していなかったが、蛍光のロール紙をセットした複数台のシュレッダーを壁面上部に取り付けて、定期的に一斉に裁断する作品《viva La viva》(2017)を出品しており、同じ仕掛けの作品を昨年のウルトラアワードで発表していた。また、別のシリーズとして、巨大なネイル作品《suger nailⅼ》(2017)を出品している。

 

《viva La viva》は、シュレッダーという日常的な道具を使って、特別な状況を作り出すという、油野の一つのスタイルといえるのかもしれない。裁断されたロール紙が空中で混色され、瞬間的な平面を生み出す効果があるため、ウルトラアワードの時ほど天井高が高くないので、落下する時間が短く効果が半減されているのは残念であった。そのため意図的かどうかわからないが、落ちていく紙よりも積もっている方の存在感が強く出ている。

 

シュレッダーが裁断する様子や積もっていく紙も面白いと思うが、ロール紙が裁断されて、落下する時に一瞬だけ現れる色や平面性を、もう少し強調するならば、シュレッダーや積み上がる紙は、遠間では見えないように隠したり、落下する壁面部分だけ少し強いライトを当てるなどの工夫があってもよいのではないかと思えた。

 

落ちた紙を持って帰ってもよいということにするなどすれば、よりフィリックス・ゴンザレス=トレス的で、観客との「関係性」が生じると言えるかもしれないが、その辺は作家の意図次第なので、どのような意味と効果を求めていくかによるだろう。様々な可能性を秘めているので、表現したいことを突き詰めて次の展開に進むことを期待したい。

 

巨大ネイルの作品《suger nailⅼ》は、トークでもそこまで話題になっていなかったが、個人的には車の塗料と同じくらい、化粧やネイルの色や質感は洗練され、商業的にも研究されている分野なので、そこに着目し作品化していることは評価するし、もう少し練って意味を持たすことができれば面白いものになると思った。

 

 

表皮のポートレイトー成田令真

 

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《portrait#3》2017

 

今回、最年少でありながら、巨大な自画像を描き出すことで、「グラン・ジュテ」の機会になったのは、成田令真であろう。すらっとした身長、個性的なファッション、派手な化粧、アクセサリーをしている成田は、自画像をテーマにしたアーティストである

 

親に自分の個性を大切にすように教わり生きていたが、いざ社会に出てみると、個性的でありすぎるために、バイトも面接で落とされるなどの経験を経てきたエピソードが開示されたが、美大・芸大出身者には少なからず心当たりがあると思う。成田にとって、鏡の前に映る自分に化粧をする行為と、自画像を描く行為は変わることはない。自分の見られている姿や個性を再確認する行為だろう。

 

アンテルーム京都の玄関屋上に設置された巨大な看板のような成田の自画像は、自画像の作品としても最大サイズであろう。清川あさみがタクシー到着したときに、運転手の間でも話題になっていることを明かしていたが、まさに自画像が社会という鏡に映し出された機会になっただろう。

 

自意識の肥大化ともいえるが、成田にとってはおそらく無理をした姿ではない。そもそもある種のコスプレともいえ、派手になればなるほど自分の姿は隠される。長く自身と向き合うことで社会的自我を表象しているのが、彼女の外形だといえるだろう。

 

入念に描くほどに、裏の姿が見えなくなり、表皮だけの自画像になっていくという反比例が興味深いが、巨大看板のような自画像《portrait#3》の裏側にはおそらく何も描かれていないだろう。また、アンテルーム京都内の鏡に貼り付けた《portrait#4》には裏側は存在しない。スマートフォンで自撮り?している肖像のように見えるが、成田の内面があるとしたら、スマートフォンの情報の中にあり、それを隠喩的に表現してているのかもしれないが真相は定かではない。 

 

ともあれ、内面をなくし、徹底的に外在化して表皮だけになっていく方が、今日的であるかもしれない。長く日本の芸術家が捉われている「内面の表出」に対するラディカルな批評であり、反ポートレート的な作品であるとするならば、新たな可能性も開けてくると思われる。

 

現在、美術・芸術大学の大半は女性であり、母数としては圧倒的に多い。女性の作家の活躍が目立たなければ逆におかしいのだが、日本の場合は(世界的にも?)そこまでいっていないだろう。

今回特に感じたのは、それぞれの気負いのなさであり、ジャンルやメディアに関わらず片意地を張っていない自然体の作家たちの姿である。先行世代との感覚の違いであり、新鮮に映る。

その上で、井上亜美のような現代アートのシーンにのっていくような作品もあれば、ファッションなどで展開できる小野由里子のような作品もあり、様々な形で表現の場を開拓していく可能性が開けていることが伺えた。90年代生まれ以降がもっと社会の中心になっていったとき、本展の状況が当たり前の風景であり、女性の活躍が叫ばれない状況になることを期待したい。本展にはその萌芽を見ることができるだろう。