「明治以降の日本の色名」三木学
江戸時代までの天然染料から、化学染料が輸入されるようになり、日本の色彩体系が大きく変化した。日本で化学染料が安定的に作れるようになり、ファッションとしても普及したのは、大正時代から昭和初期にかけてにあたる。その時代の彩度の高い配色体系が洗練されていたら、今日の色彩環境も大きく変わっていたのではないか、ということは予想される。
もう一つ重要なのはその時代の色名である。新しく輸入された色名は、そもそも翻訳が難しく、そのままアルファベットをカタカナにして使われることもあれば、新語も一応は生み出していた。だいたい着物を売り出すのは呉服店、そしてそから業態変化した百貨店なので、百貨店を中心に新しい色名も作られようだ。ただし、当時、コピーライターはいないので、文学者に依頼することが多く、あまりに文学的過ぎて、今見ても何の色を表すか全然わからない。そうして、普及せずに色名としても当時の色彩感覚は残らなかった。
色名というのは、日本は200程度、最大でも2000程度が辞書に収録されているが、英語では最大7500程度の色名が収録されている。だからと言って、言語的にも西洋に比べて色彩文化が貧しいというわけではない。
というのも、色名が作られたのは、割合としては19世紀以降が一番多く、19世紀半ばに初めて化学染料が出来てから、色名が飛躍的に増えているからだ。
最初に化学染料を発明したのはイギリスの科学者W.H.パーキンである。1856年に発明され、モーブと名付けられたその色は、現在でも色名として使用されている。葵を意味するフランス語からとられた。
当時は、化学合成染料の発明は、特許をとる知財であり、莫大な資産を築くものだったのでその後も様々な染料が開発されている。
つまり、化学染料の発明は、明治直前のことであり、それほど遅れをとっていたわけではない、ということである。大正から昭和初期の色彩揺籃時代が途切れてなければ、モーブのように、染料の色材名ではなく、それに近い物体の色を命名し、現在でも使用されていた可能性もある。
大正から昭和初期の出来た色彩文化で失ったものは、その鮮やかな色彩感覚だけではなく、そこから名付けられる可能性のあった色名も含まれるということなのだ。
参考文献