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それぞれの時間から私の時間へ-「他人の時間」三木学

www.mot-art-museum.jp

東京都現代美術館(MOT)から巡回して、現在、大阪の国立国際美術館で「他人の時間」という展覧会が開催されている。「他人の時間」展は、東京都現代美術館、国立国際美術館、シンガポール美術館、クイーンズランド州立美術館・現代美術館の4名のキュレーターの共同企画として、アジア・オセアニア地域のアーティストによる展覧会である。

 

 大阪展では、ヒーメイ・チョン、加藤翼、キム・ボムの三作家が加わり、合計20名のアーティストによって、アジア・オセアニアに流れている複数の他人の時間を表そうとしている。

 

英語名のタイトルは、「TIME OF OTHRES」となっている。日本語において他人と使うシチュエーションは少なくない。時に「赤の他人」というように、わたしとは血縁も繋がってないし面識もない全く無関係な人という場合に使う。他人とは、自分のコミュニティの外部にある人の総称であり、無関係であると同時に、無関心の人々ということも指しているだろう。

 

反発よりも厳しいのは、無関心であるということはよく言われることだ。無関心である限りは、存在してないに等しい。「他人の時間」とは逆説的に、他人の存在証明の意味合いを持っている。

 

ティルマンズと会期が重なっており、同時に見る人が多いと思うが、ティルマンズの思わせぶりで読み取りが難しい大量のイメージを見た後に、非常に政治的な要素が強い「他人の時間」展を見るのは頭の切り替えが難しく、また非常に疲れることでもあった。一つ一つに強い意味があり、多くはアジア・オセアニアの近現代史において、隠れていた政治的な暗部を、個人的な視点から虚実を入り混ぜて告発するという内容になっている。

 

美術手帖2015年6月号において、能勢陽子氏は、

「アジアという括りで開催される展覧会に、どこか居心地の悪さを覚えることがある。一つには、作家の属するそれぞれの国の背景が一つの文化圏にまとめられ、差異が見えにくくなってしまうとき。また逆に、国の歴史的・政治的背景ばかりが際立ってしまうようなとき。どちらも、ポストコロニアリズムやマルチカルチャリズム以降の世界の要請に、意図的にせよ、無意識的にせよ、応えているところもあるだろうが。欧米中心の美術の枠組みを見直すべきではあるけれど、その方途は手探りのままで、とらわれまいとするのに却って強くとらわれてしまうこともあるかもしれない。そんなふうに、アジアを冠した展覧会では、自らの視点があちらこちらを彷徨いはじめ、しばしば収まりの悪さを抱えて宙ぶらりんになる。さらに、近代以降のアジアでの日本の立ち位置を振り返ると、視点はさらに複雑になる。そこで露わになるアジアの政治的・社会的問題の多くは、歴史的にはまったく関係ないとは思われないのに、なお「他者」として見えてくることにある種の決まりの悪さを感じるのだ。」

と述べている。

 

その上で、「他者」ではなく、「他人」を使うことで、「今どこかで同じ空の下を生きている人々のことを想起させる」、「空間による分断されることはなく、海を越えてつながっているような感触を与える」、「ポリティカルな問題を扱いながら日常や個人の豊かさ余白をそのまま含み込んで、ゆるやかに連帯してく」と肯定的に捉えている。

 

個人的には、他者よりも他人の方が冷たく、コミュニティの外部と明確に意識し、意図的な場合に使い、他者の方が対等の扱いに感じる。そもそも他者のような言葉は、西洋哲学の翻訳によって生まれた言葉で、近代的概念だといってよいだろう。

 

そのような日本語の用途の問題はともあれ、アジア圏だけではなく、非西洋圏の持つアートの政治性は、その告発が政治的に正しくとも、決まりの悪さを感じるのは間違いない。日本の場合は、いち早く近代化し、植民地支配の加害者でもあることが余計に、彼らと我らの立ち位置の違いを揺さぶられてしまう。

 

しかし、そのような差は多かれ少なかれどこの国でもあるかもしれない。もしかしたら、「他人の時間」ではなく、「それぞれの時間」だった方がより肯定的だったのではないだろうか?それぞれの方がより主体的に彼らが過ごしている歴史や時間について考えることができる。それぞれの歴史を知ることで関心をもち、生き方を尊重する機会をつくることこそが本来の目的だろう。

 

個人的に印象に残った作品を挙げておく。沖縄出身のミヤギフトシは、ドキュメタリーとフィクションを混ぜたような映像作品で、故郷の沖縄における幼馴染の友人との再会と、沖縄戦の中で、収容所になっていたある島で捕虜となった日本兵と米兵の出会いを、自らのナレーションでまるで小説のように語っていく。日本兵と米兵の出会いの象徴的なモチーフである、ベートーヴェンの弦楽四重奏が映像のBGMに流れ、いっきにミヤギフトシの作り出した時間に引き込まれる。

 

最近では映画風の演出的な映像を作るアーティストも増えているが、ミヤギの作品はナレーショを軸に映像と音楽が演出的に作られており、映像と音楽は現実のものではなく、彼の語る我々の知らぬ過去や物語の世界に属している。そして、ふとした時に、現実に撮影された映像としての今に戻ってくる。極めて洗練された見せ方だったと思う。

 

そこには現実的な政治性はあるのかもしれないが、彼が作り出した世界や演出の方がはるかに大きな位置を占めている。こちらが、他人として作品を鑑賞するのではなく、ミヤギフトシのように、極めて巧みな方法で没入させ、自分のことや、友人に話しかけるような方法としてアプローチする方が、わがごととして捉えることができるだろう。

 

小説で言えば、一人称の話法に、感情移入してしまうということなのかもしれないが、鑑賞者が「他人」にならないための方法は、アートではまだまだ尽くされてない気がする。ミヤギフトシの作品は思わぬ方法でその壁を乗り越え、私たちの時間にすることに成功していたと思う。

 

余談だが、ミヤギフトシは、2001年頃、大阪の谷町4丁目に住んでいたらしく、その頃、僕は谷町6丁目の会社で働いていた。同僚にドラァグクイーンがおり、北区のクラブのショーに何度かせがまれて見に行った記憶がある。ミヤギフトシは難波のドラァグクイーンのショーに行っていたそうだが、どこかですれ違っていたかもしれない。時間はこのように重層的につながっているのだと改めて感じさせられた。

http://realkyoto.jp/review/miyagi-futoshi_wolfgang-tillmans/

 

 参考文献

 

美術手帖 2015年 06月号

美術手帖 2015年 06月号