shadowtimesβ

ビジュアルレビューマガジン

スポンサーリンク

川がもたらす創造性「堂島ビエンナーレ2015:Take Me The River-同時代性の潮流」三木学

biennale.dojimariver.com

8月30日(土)まで。

 

堂島ビエンナーレが今年四回目を迎える。堂島ビエンナーレは、堂島リバーフォーラムという多目的ホール、ギャラリー、カフェ、高級賃貸マンションからなる複合商業施設で開催されている。堂島は、関西在住ではないと馴染みがないかもしれないが、中之島の対岸にある、大企業の本社や支社などが多く立ち並ぶオフィス街として知られている。中之島の国立国際美術館も近く、大阪の新たな文化ゾーンといってもいいだろう。江戸時代は、蔵屋敷が多く、区画の広さがその名残となっている。

 

 堂島ビエンナーレは、一つの施設で継続的に開催されているビエンナーレとして、コンパクトながら、アーティスティック・ディレクターのメッセージやテーマ性が明確であり、招聘される作家の質も高い。日本各地で開催されるビエンナーレ、トリエンナーレ、芸術祭と比較して、ドメスティックな要素があまりなく、世界の潮流を捉えた本格的な展覧会として一線を画しているところがある。

 

第一回目のアーティスティック・ディレクターは南條史生(森美術館館長)、テーマは「リフレクション:アートに見る世界の今」。第二回目は飯田高誉(森美術館理事/インディペンデントキューレーター)、テーマは「ECOSOPHIA(エコソフィア)」。第三回目はルディ・ツェン(現代アートコレクター、台北)、テーマは「Little Water」。そして、第四回目となる今年はトム・トレバー、テーマは「Take Me To The River-同時代性の潮流」である。

 

以上に見られるように、堂島リバーフォーラムが堂島川の畔にあることから、代々川や水に関連するメタファーのタイトルが冠されている。堂島ビエンナーレの足跡を見ていると、「川」といった古典的な題材が、実は現代アートにおいても、豊穣な可能性を与えていることがわかる。

 

今回、アーティスティック・ディレクターのトム・トレバーは、展覧会のステートメントに、鴨長明の「方丈記」の「行く川の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず」という出だしの一節を引用している。また、ギリシャの哲学者、ヘラクレイトスの「同じ川の流れの中には再び入ることができない」、「万物は流転する」という言葉から、東西の思想の接点を見出している。

 

さらに、スペイン出身の社会学者マニュエル・カステルの著書『ネットワーク社会の出現』の中に出てくるターム「流れの空間性」を挙げ、グローバル化した社会において、固定された場所より、時間の流れの重要性が増していることを示唆している。

 

今回、川を比喩にして表現されているのは「流れの空間性」であり、流れの中で変容し、交換されていく状況そのものである。そして、グローバル化、ネットワーク化する社会の中で、従来的なコミュニティに依拠した自我から、新たな自我が現われつつある今日の状況で、アーティストやアートはどのように変化しているのか(変化をおこせるのか)という問いにもなっている。その判断は鑑賞する我々に委ねられている。

 

今回、世界中から集められた15組のアーティストの作品は、何らかの形で「流れの空間性」に関する内容であり、自我の揺らぎをテーマにしている作品も多かった。

 

通常、メインホールに複数の作品が展示されるのだが、今回は池田亮司の巨大なプロジェクション作品《date.tecture》のみが展示されていた。暗闇の中で、コードや数値、幾何学的な線が流れる映像が投影され、爆音の電子的ノイズに包まれていた。もしも、我々が日々何気なく使っている電子データのトラフィックを視覚的に拡張すればこのように見えるかもしれない、という表現であるが、どのようなデータから変換しているかはわからない。偶然、私しか鑑賞者がいなかったので、轟音と点滅する映像に身体が硬直し、情報に流されそうな気分になるが、まさに現代社会を可視化すると、押し流されているのかもしれない。

 

空間の占められ方からしても、池田亮司の作品が、今回のビエンナーレの主題の役割を果たしているといえかもしれないが、興味深い作品はたくさんあった。関西の伝説的な前衛グループ、The Playは、淀川を矢印型の筏に渡っていくパフォーマンスでよく知られているが、今回は家型の船?《IE:The Play Have a House(家:プレイは家を持った)》の再現展示を行っていた。池田亮司とは対照的なアナログさだが、目の前に堂島川が流れていることもあり、実際使われた家型の船の展示や映像は、身体的な訴求効果が高い。家が流されることは、異常事態だが今日においては、何度も映像で見ているため既視感がある。我々は情報やネットワークだけではなく、世界的な気象変動の中で流されているといってもよい。

 

ピーター・フェンドの《日本の近海:海岸の海域》、《環境防衛:海からの日本への影響》は、ランドアートにエコロジカルな視点を加え、陸中心主義から海へと転換させていているところが興味深い。また、グローバリズムの批判ともいえるが、スーパーフレックスの《水没するマクドナルド》は、大企業による環境悪化や気象変動の観点から見るとさらに深みを増す。照屋勇賢のファーストフードの紙袋を切り込んで内部に小さな樹木を作って覗き込む《告知-森》も、スーパーフレックスの手前の机に展示されていることで、一層複雑な意味が生れていた。ファーストフードの袋のために切られた樹木と、それによって起こった洪水によって水没するファーストフードという、因果を読み取ることも可能だ。

 

「流れの空間性」、ネットワーク時代の波に揺れるアーティストの自我、という展覧会の意図に一番かなった作品は、ヒト・スタヤルの映像インスタレーション《リクイディティ・インク》だろう。波のような構造物と一体化した柔道マットに寝ころびながら、格闘技や異常気象のサンプリング映像をカット&リミックスしながら、ベトナム戦争で孤児になってアメリカで育てられた移民の複雑なアイデンティティを浮かび上がらせる。フェルメール&エイマンスは、巧妙に練られた映像インスタレーションや、雑誌、コンピュータを駆使して、アートと不動産と金融資本が複雑な関係によって、指数化(インデクス)されている今日の状況を皮肉っている。金融と不動産はもっとも人工的で強力な情報であり、その流れにアートも飲み込まれているといえる。

 

個人的には、《再会のリハーサル(陶芸家の父とともに)》が面白かった。サイモン・フジワラは、日本人の父とイギリスの母との間に生まれ、父と離れてイギリスの母の下で育った。《再会のリハーサル(陶芸家の父とともに)》は、自らが脚本を書き父との邂逅をモチーフにした舞台作品の練習風景をドキュメンタリー風に映像化したものだ。だが、実際の舞台はおそらく存在せず、練習風景だけが作品化されている。衝撃的なラストシーンでは、何が現実なのか分からず混乱するかもしれない。

 

サイモン・フジワラは、日本の民藝運動の一員でもあるイギリスの著名な陶芸家、バーナード・リーチが住んでいたセント・アイヴスで幼少期を過ごしている(映像中ではそう言っている)。セント・アイヴスには同じく民藝の流れをくむ濱田庄司も訪れバーナード・リーチと共同制作をしていた。そのエピソードを受け、サイモン・フジワラも長年離れていた日本の父と、邂逅と和解?のために陶芸の共同制作をし、父との写真と完成した陶芸品をケースに入れ、リーチと濱田庄司の共同制作の写真を同時に並べて《ミルク用水差し(陶芸家の父より)》、《ビール・ジョッキー(陶芸家の父より)》という作品に仕上げて展示している。

 

複数のルーツを持つハーフ(ダブル)であり、アジアとヨーロッパに引き裂かれた、アイデンティティの揺れと自分たちが見出した生き方を象徴的に表現したものだといえるが、表現の仕方が洗練されている。サイモン・フジワラは現実と虚構を巧妙に組み合わせる作風で知られているが、アイデンティティやルーツ自体に虚構性があることを暗に示しているといえる。

 

巨大な国際展が多い中、15組というのは少ないように思えるが見ごたえは十分であり、作品相互の関係性によってさらに、波が生れるように計算されている。行き帰りに堂島川の流れを見比べると、まさに「行く川の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず」であり、自分の中にも新たな変化が起きていることは十分実感できるだろう。