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ビジュアルレビューマガジン

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「建築家なしの建築」と「建築なしの建築家」の時代『だれも知らない建築のはなし』三木学

ia-document.com

 

今年は、日本のアートドキュメンタリー映画の当たり年といっていいだろう。まず写真家、畠山直哉が実家のある陸前高田が津波で壊滅的な被害を受け、それ以来、陸前高田に定期的に通い撮影を続けながら、写真とは何か?自然とは何か?人生とは何か?と模索を続ける様子を描いた『未来をなぞる 写真家・畠山直哉』、同じく写真家、石内都(いしうち・みやこ)がメキシコの世界的女性画家フリーダ・カーロの遺品を撮影する様子を描いたドキュメンタリー『フリーダ・カーロの遺品-石内都 織るように』、そして、アーティスト、内藤礼を主題に、他に5人の女性を撮影した『あえかなる部屋-内藤礼と、光たち』である。

映画『未来をなぞる 写真家・畠山直哉』公式サイト

ドキュメンタリー映画『フリーダ・カーロの遺品 - 石内都、織るように』公式サ
イト

映画『あえかなる部屋 内藤礼と、光たち』公式サイト|2015年9月~全国劇場公開

 

中でも特に注目されているのが、石山友美監督の『だれも知らない建築のはなし』である。もともとこの映画は、2014年のヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展に出展された56分のドキュメンタリー映像『INSIDE ARCHTECTURE A Challenge to Japanese Society』を追加編集し、73分の映画としてまとめられたものだ。

 

アートドキュメンタリー映画の当たり年と書いたが、21世紀になりようやく日本のアーティストと建築家が世界的に認められるようになり、ドキュメンタリーの被写体として、魅力的な存在になったということはあるだろう。

 

現在では多くの国際展やアートフェア、コンペなども世界中で開かれているため、国際的なアーティストや建築家になる道はたくさんあるのかもしれないが、日本人にとって、ヴェネチア・ビエンナーレの影響力は未だに大きいといえるだろう。

 

その証拠に、上に挙げられた4作は、すべてヴェネチア・ビエンナーレに関係がある。畠山直哉は2001年のヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展の日本館の出品作家である。石内都は2005年の日本館の代表作家、内藤礼は1997年の日本館の代表作家である。

 

畠山直哉にいたっては、伊東豊雄がコミッショナーをした2011年のヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展に、乾久美子(建築家)、藤本壮介(建築家)、平田晃久(建築家)とともに参加している。そして、畠山の故郷で被災した陸前高田に参加メンバーが設計したコミュニティハウス「みんなの家」のドキュメンタリー展示を行い、金獅子賞を受賞している。その時の展覧会は「ここに建築は、可能か―Architecture.Possible here?“Home-for-All”」という、今日の伊東豊雄の苦悩や日本を取り巻く建築の状況を示唆するようなタイトルになっている。

 

そして、肝心の『だれも知らない建築のはなし』であるが、まず出演しているメンバーが凄い。生きた建築史とでもいえるメンバーが勢ぞろいしている。建築家でいえば、安藤忠雄、磯崎新、伊東豊雄、ピーター・アイゼンマン、レム・コールハース、建築理論家のチャールズ・ジェンクス、加えて建築雑誌『a+u』の元編集長、中村敏男、建築雑誌『GA』の編集長、二川由夫ある。

 

ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展2014では、全体のコミッショナーをレム・コールハースが務め、「近代建築の変化100年」がテーマになっていた。そこで日本館ディレクターであった建築史家の中谷礼仁氏が、日本の建築の分岐点であった70年代をテーマに、石山友美氏にドキュメンタリー映像を依頼した。

 

石山友美氏は映画監督であるが、その出自はとてもユニークである。磯崎新の建築事務所で勤め、その後、映画監督になっている。しかも、建築家の石山修武の娘であり、建築についてはプロフェッショナルだといっていい。石山修武は、安藤忠雄や伊東豊雄なども含まれる「野武士」と言われた世代であることも因縁深い。それらがこのドキュメンタリー映画を特異で深みのあるものにしている。

 

特に今回採用された編集方法は、非常に練られたもので、この豪華なキャストに20時間以上のインタビューを敢行し、それを4つの章に分け、73分にまとめている。4章は4つの象徴的な出来事である、「P3会議」、「ポストモダン」、「くまもとアートポリスとNEXUS WORLDプロジェクト」、「バブル崩壊~震災後」がそれぞれの中心的な「議題」となっている。

 

それぞれが当時の出来事を、回想をしながら語るのだが、話者が次々と代わることで当時の状況が多角的に、物語のように浮かび上がる。合間に資料映像とナレーションを効果的に挿入しながら、過去のエピソードを現在進行形のように見せる。それが見るものに臨場感や高揚感を与える。

 

インタビューは時にナレーションのように、時に当時の議論の再現のように見える。過去の出来事を現在のように、そして離れ離れの話者を「映画」によって同じテーブル上に乗せているように思える。つまり、この映画は架空のシンポジウムなのだ。

 

とはいえ、この映画に主役、シンポジウムで言えば司会者がいるとすれば、間違いなく磯崎新である。コルビジェに影響を受けたモダニスト、丹下健三、前川圀男、坂倉準三という前世代の後に、黒川紀章らメタボリストとつかず離れずに行動し、それが大阪万博でピークを迎える。黒川は多くのパビリオンの設計を担当し、磯崎は中心にあるお祭り広場の諸装置を設計する。大阪万博は、メタボリズムのピークであると同時に、署名性の建築家の終わりの始まりでもあった。

 

華やかな万博が終了後、一転、オイルショックや公害など課題が山積みになる、そして、70年代には、日本国内では、現代のような大規模プロジェクトは大手ゼネコンが実施するようになり、磯崎新の後の安藤忠雄や伊東豊雄の世代は、個人住宅でキャリアを積むしかなかった。磯崎新は、海外に活躍の場を求め、同時に幅広いネットワークを築き、日本の若手を積極的に紹介する役割を果たしていく。バイリンガルであった『a+u』や『GA』がそのあと押しをする。

 

そこで開催されたのが「P3会議」(1982)であった。P3会議は、フィリップ・ジョンソンと、ピーター・アイゼンマンの呼びかけにより、「建築の社会的役割」テーマに、世界中の建築家が集まった伝説的な会議である。そこに若きコールハースも呼ばれていた。その時、磯崎新が同行させた若手が、安藤忠雄と伊東豊雄だった。しかし、安藤や伊東はまだ《住吉の長屋》(1976)や《中野本町の家》(1976)で国内的に注目されていたくらいであり、世界のシーンでは認められた存在ではなかった。実際、安藤の《住吉の長屋》のプレゼンに、レオン・クリエが侮蔑を込めた無言の拍手をしたエピソードが明かされている。

 

学歴や学閥を持っていない安藤は、外部の人間という認識を持ちながら、世界に認められるために自分の方法を確立させてく。しかし、「自分は常に排除されている」とコメントしている。巨大な官僚機構やゼネコンシステムの中で、自分が活かされているのは、ほんの一部に過ぎない、という認識を持っている。「世界のANDO」と言われながら、神輿に担がれるのは、都合のよい時でしかない。この映画の公開と同時期に、新国立競技場の問題で、審査委員長の安藤がやり玉に挙がっていたのは、象徴的である。記者会見で安藤は「自分の権限は一部でしかない。価格についてはゼネコンにも協力してもらいしかない」と述べた。それは安藤の建築界における認識そのものである。

 

その後も、磯崎は自身の建築家よりも、世界的なネットワークを活かし、巨大都市をコミッショナーという立場で牽引していく。コミッショナーは、従来の入札制度ではない特別権限を持ち、磯崎のビジョンによって、建築家を指名していくシステムである。コールハースはそのことを「建築のキュレーション」と呼んでいる。

 

磯崎は「くまもとアートポリス」において、伊東豊雄や若手建築家を積極的に参加させる。伊東が、公共建築に携わるのは、40代後半になった「くまもとアートポリス」のプロジェクトが初めてであり、「一生、個人住宅を設計して終わると思っていた」と振り返り、今や世界で評価され、プリツカー賞を受賞した建築家とは思えない発言をしている。コールハースもまた、福岡地所の集合プロジェクトにおいて磯崎が指名した6名の建築家の1人とし参加することで実作の少なかった時代に次のステップへの足がかりをつけている。

 

しかし、バブル崩壊後、日本は壮大な現代建築の実験場ではなくなっていく。さらに阪神大震災、関東大震災という二回の地震を通して、建築家はより具体的に社会への貢献を探るようになる。伊東は陸前高田のコミュニティハウス「みんなの家」のプロジェクトを実施する。一方で行政や住民に提案するプロジェクトは賛同を得ながらも、ことごとく既存の官僚機構やゼネコンシステムに排除され、予算が下りないことを告げられていることを告白する。そして、そのシステムは暴力ですらある、と主張する。磯崎からコミッショナーを引き継いだ「くまもとアートポリス」においても建築家の役割が変わっていることを察知しており、噴きだす矛盾への苦悩を吐露している。

 

一方で、レム・コールハースは、逆説的に、東京をリサーチしたときに、徹底的に建築家の個性や顔の見えない機能だけの建築群に、ひそかな共感を告白する。そして、そのあり方を、自身の建築に応用していると述べる。

 

安藤もまた、植樹などの活動をしながら、建築だけではない社会貢献活動を模索する。しかし、建築の土台となっている、職人の圧倒的な不足について指摘し、このままでは建築を成り立たせる土台自体が失われると警鐘を鳴らす。

 

この映画は、『だれも知らない建築のはなし』というタイトルでありながら、日本の巨大な官僚機構やゼネコンシステムの中であえぎ、模索する署名性のある建築家の叫びのような内容になっている。そのシステムは「建築家なしの建築」と言い換えることもできるだろう。もちろん、その裏には匿名の建築家がシステムの内部に大勢参加していることは言うまでもない。本当に誰も知らないのは、その巨大な官僚機構とゼネコンの見えないシステムといえるかもしれない。

 

一方、建築家の社会貢献活動において、建築というハコモノが求められなくなっている事態が、地方を中心に広がっている。それはコミュニティ・デザインと呼ばれているが、「建築なしの建築家」とでも言い換えることができるだろう。

 

「建築家なしの建築」の社会の中で、「建築なしの建築家」として活動するしかないのか?この映画は現在の建築をめぐる深刻な状況を浮かび上がらせている。磯崎新は、都市こそが議論の土台だと、建築よりも大きなフレームを見据える。安藤忠雄や伊東豊雄は、磯崎新の後に続いているが、磯崎新のように、海外の建築界とつながりながら、オーガナイズするというスタンスではない。

 

磯崎新は、中国や中東に舞台を変えながら、世界の建築家を今もキュレーションしている。チャールズ・ジェンクスは、未だバブルは終わっていない。世界で膨らみ続けているのだと主張する。

 

日本の建築は果たしてどうなるのか?第二の磯崎が現われるのか、あるいはこのまま閉じていくのか?日本の建築の熱い時代を追体験しながら、オリンピックを目前にして、これからの建築と建築家の行く末を思わずにいられない映画であった。

 

 ※内容が濃すぎて書ききれなかったことが多いので、関心のある人は是非見てください。

 

参考文献

 

ここに、建築は、可能か

ここに、建築は、可能か

 

 

陸前高田 2011‐2014

陸前高田 2011‐2014