読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

shadowtimesβ

ビジュアルレビューマガジン

スポンサーリンク

知覚と認識の余白-鈴木里理策写真展「意識の流れ」三木学

 

f:id:shadowtimes:20150920233440j:plain

「人はたいてい写真に写っている対象が何かわかると、見るのをやめてしまいます。無意識のうちに写っている内容を言葉に置き換えて、たとえば「熊野の風景だ」「桜だ」「雪だ」という具合に対象を認識したとたん、それ以上見ようとはしません。でも見るという行為は、ゆらぎを含んだ動的なものであるはずです。そこで私は「○○の写真」ではなく、「見えていること」そのものを提示したいと考えました。」

鈴木理策写真展 意識の流れ[インタビュー]|東京オペラシティアートギャラリー

 

写真の展示において、現在、国立国際美術館(大阪)で開催されているティルマンスに並び立つくらい、新しいイメージの空間を作り出している展覧会が開催されている。東京オペラシティアートギャラリーで開かれている鈴木理策の「意識の流れ」展である。ともに、23日(水・祝)までであるが、少なくとも写真に関しては、双方、今年最注目の展覧会だろう。

 

近年は写真がアートのメディアとして使わることは珍しくないが、カメラという装置ならではの方法を突き詰めている作家はそれほど多くはない。鈴木理策は写真集『KUMANO』や『PILES OF TIME』などの初期作品から、一貫して写真と視覚、写真と写真の間に生まれる時間や意識について探求してきたといってよい。雑誌的な展示手法で一世を風靡したティルマンスとは違うが、鈴木は写真集というメディアにおいて、ロードムービーのような一筋の道における断片を切り取ることで、写真と写真の間の余白の時間を浮かび上がらせることで注目されてきた。

 

また、パンフォーカスのように、すべてにピントが合った状態ではなく、絞りを開放気味に撮影し、狭いゾーンにピントを当てることで、風景のどこに注意が向けられているか明示してきた。それによって、写真と視覚の一致やズレが表現されている。ただ、それも絶えず動き回る視線や眼のピントの断片を切り取ったに過ぎない。しかし、その断片からその他の無数の視線の動きを想像させられる。写真によって、視線と動線の間の余白を生み出すことによって、広大な時間と空間を想像させることに成功しているといえる。

 

しかし、写真集のように前後が強制され、1枚と1枚の間に切断がある媒体と違って、ギャラリーや美術館における空間の展示はリニアな見方を強制することはできない。視覚環境として提示した後は、見る順番は鑑賞者に委ねられる。ただし、順路は指定できないが、ある程度動線や視線は誘導されていることがわかる。

 

そして、鈴木の「視点」に誘導され環境全体が浮かび上がる。鈴木の故郷である熊野が被写体となった《海と山の間》は、まさに、滝や川、海、海など、海と山の間の環境がが浮かび上る。ただし、環境といっても鈴木の知覚上の環境といえるかもしれない。それは認識以前のもので、言葉として掴まえられるわけではない。言葉として明示する前の、知覚から認識の間を表現しているように思える。複数の写真を提示しながらも、認識へ至る記号を巧妙に避けている。

 

また、今回、映像作品が展示されているのも興味深い。《火の記憶》は鈴木が『KUMANO』で撮影した新宮の神倉神社で行われている火祭り、お燈まつりを、デジカメのムービー機能を使って撮影したものだ。映像として見ると非常に見にくいのだが、要するに写真としてシャッターを押す前後も含めた映像が流れているといっていいだろう。鈴木の注意によって、フォーカスが合ったり、外れたり、フレームが揺れたりする。もしカメラ機能であったとしたらどこで撮影されていたかを考えるのは興味深い。ある意味、今まで明かされてなかった写真と写真の間の余白もふくめて提示されたといってよいだろう。しかし、考えてみれば、デジタルカメラにおけるシャッターとは、ビデオにおける停止と同じであり、カメラはすでにビデオカメラの一機能にすり替わっているともいえる。

 

f:id:shadowtimes:20150921005843j:plain

《The Other Side of the Mirror》

 

その他、《SAKURA》、《White》、《Étude》、《水鏡》のシリーズが展示されている。特に《水鏡》は、水面に映り込むもの、水面に映り込んだもの、水面、水中などが、写真のフォーカスでは同時に得ることができないことを示している。どれかにフォーカスを合わすと、どれかは外れてしまう。そして、写真として定着したとき、それは同一の平面になるので、どれが「実体」なのかは認識できないだろう。《水鏡》とタイトルが付けられているが、水は鏡と違って、透明な空間があるため見え方はより複雑だ。心理学者のカッツは、色の見えを9つに分類しているが、水は一つの分類には収まらず複数の見え方が混合してしまう。《The Other Side of the Mirror》は、《火の記憶》と同様な手法で映像化されているが、火という光源とは対照的に、反射によって見え方が多層的に現われるのが印象的である。

 

鈴木は、写真と被写体によって起こる知覚現象の多様性を現そうとしている。同時に、知覚と認識の間で、意識がさまよっている状態そのものに鑑賞者を置こうとしているように思える。それは極めて不安定だが、不安定なままに自分を置くと、意識がカメラのフォーカスのように勝手に何かに合ったり、合わなくなったりする。それは人間の場合、記憶や無意識に属するものだ。自らがコントロールできない「意識の流れ」といえるだろう。意識の流れに身を任せることで新たに見えてくるものもある。

 

意識の流れに身を任せることで、被写体となっている熊野や吉野が過剰な意味から引き離され、新たな風景として感得できたとしたら、鈴木のたくらみは成功したといえるだろう。

 

参考文献

 

KUMANO

KUMANO

 

 

 

PILES OF TIME―鈴木理策写真集

PILES OF TIME―鈴木理策写真集

 

 

 

鈴木理策 熊野、雪、桜

鈴木理策 熊野、雪、桜