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「“気配”の色」山本聖子(美術家)

ニュータウン区画整理された身体

 

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小学生くらいのころから本や雑誌などで時々目にする、
アフリカか南米か、どこか遠い国の人たちが鮮やかに笑うその表情になんとなく目を留めてきた。
それについて誰かと話すとかは無かったけれど、
写真の中の彼らはいつも、私の知らない何か を知っている感じがした。

 
私は幼い頃から、区画整理されたニュータウンで育ち、
生活に必要なものは全て用意され、ある意味、淡々と生きてこられた。

土地の神様に心から何かを願う必要も
命について切迫して考える必要もなく、
それは、確かに「安全」で「快適」な暮らしだったように思う。

しかし、ふいに“彼ら”を見かけるたびに
地球上の何か、それも、とっても美しくて大事な何か を感じ切れていないような
そんな感じがした。
私の身体(からだ)は、どこからも切り離され
私の思考にも社会の変化にも関係なく、無関心にじっとしていたのである。

 

私の制作の原点には、このような、ある種の違和感がある。
街が整えられれば整えられるほど、便利になればなるほど、
生の身体を持っているという根本的な実感が、
薄くなり、遠のくのである。

 

その違和感は制作において‘不動産の物件の間取り図を、無数に切り抜く’という、身体を伴う行為へとして表れた。
まるで匿名の記号のような間取り図を、ひとつひとつ丹念に切ることで、その中にある生活が、生の身体を伴い多様であることを想像し、確認したかったのかもしれない。
最終的にそれらはパズルのように構成され、結局、タテとヨコだけの無機質な線の集積へと回収された。

 

 

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 《frames of emptiness》2011
サイズ : 105cm×105㎝×180cm
素材 : 物件広告の間取り図、ラミネート、鏡、アクリル、木、ミクストメディア
メガアート倉庫(現・MASK)、大阪での展示(2013)

 

“ある気配”に潜む“黒くどろりとしたもの”

 

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2013年5月、私はメキシコシティでの生活を始めた。
1年間という限られた時間ではあったけれど、この渡墨の決断も‘間取
図を切る’という行為とさして変わらない、無関心な身体への挑戦だった。

 

スペイン語を勉強する傍ら、街をとにかく歩くことを日課にし、
目の前の風景や人々の生活をひたすらに観察してまわった。
遺跡や美術館、博物館めぐりはもちろんのこと、

 

街に溢れる騒音の量、
歩道の舗装のでこぼこ具合
ビニール袋の薄さ、
キッチンの使われ方、
トルティーヤの焼き方、
建物のペンキの塗り方、
人々のハグの熱さ、
靴の傷む早さ、
朝の始まり方
夜の暮れ方・・・

 

など、そこにあるものは全部知りたいと思った。
それは目の前に漂う、圧倒的な“わからなさ”に近づくための方法であったし、
そして同時に、自分自身の“わからなさ”を顧みることでもあった。

 

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半年ほど経ったある日、私は、あることに気が付いた。
街は溢れんばかりの色彩や、人々の活気ある声、
小銭を稼ぐアコーディオンの音や、美味しそうなタコスのにおいで満ちているのに
背後にはいつも、“黒くどろりとしたもの”があるのだ。
まるで、人々は笑い、色を放ち、隙間を埋め、一切の余白を残さないことで、
彼らの背後に潜むその“黒い何か”から注意を逸らそうとしているかのようだ。

ひとたびニュータウンを顧みると、メキシコの街に漂う“黒くどろりとしたもの”は途端に姿を変え、“白いプラスチックのように無機質なもの”になる。
それはとてもシンプルで清潔だけれども、人々にいつも一定の距離を置くことを求め、生活の内側を極端に覆い隠す。街はシンプルで合理的なデザインに溢れ、人間のねじれやゆがみはあたかも存在しないかのように、それらを受け止める場所は設けられていない。

 

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《plastic soup》2014
サイズ:26’56”
素材 : Video

 

私はどの都市にも、色形は違えどこういった“ある気配”のようなものがあると思う。それは見えないし、聞こえないし、匂わないし、触れない。けれども確かに存在し、その土地の地形や風土、歴史などの様々なことと密接に関係しながら形成される。

例えば、メキシコでは、大航海時代にスペインに征服され混血化が進んだことで、“メキシコ人”という確固たるアイデンティティが不在であると言われる。その文脈はメキシコでのそれが“黒くどろりとしていること”と決して無関係ではないと思う。またニュータウンをはじめとする日本の都市部で、それが“プラスチックのような無機質な白”だと感じることも、戦後の社会変化の影響は随分あるように思う。

 

メキシコに行って、私の身体は日本にいるときとは明らかに違うほど、よく動くようになった。それはメキシコの“黒くどろりとしたもの”によって、動かされていたのだと思う。

 

そして過去、日本で私の身体がうまく動かなかったのは、ニュータウンや日本での“白いプラスチックのように無機質なそれ”が、無意識のうちに強く影響していたのだろう。つまり日本のそれは、個人が個人として身体を動かすという基本的な能力や欲求を、静かに、しかし確実に、剥ぎ取っているのではなかろうか。

 

もちろん、「白」だから良くて、「黒」だから悪いということではない。それぞれに一長一短があるのは確かだ。ただ、その“ある気配”の色やディティールを調べることは、私たちの行動を無意識に規定している社会や地形やその他あらゆるものに総合的に目を向け考えることであると思う。

 

そして、それをアーティストとして視覚的に表現することができれば、私自身や、私たち、そして多くの地域に住む人々の、根本的な前提の違い、無数の誤解や共通点を見出すことを、より容易にするのではないだろうか。

そんなことを考えながら、しばらく色々な街を歩きながら、身体で目の前にある色を感じる日々が続くと予感している。

 

 

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 《極彩色の闇》2014
サイズ : 55‘41“
素材 : 記録映像
メキシコシティ中心部のソカロ広場で行ったパフォーマンス

 

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《darkness》2014 
サイズ : 4’00” 
素材 : Video

 

プロフィール:
山本聖子/美術家(やまもとせいこ︎) 
2013年度ポーラ美術振興財団の在外研修員としてメキシコシティに1年間滞在。その後2014年にオランダのレジテンスに滞在するなど国内外で活動。拠点は大阪の千里ニュータウンであるが、区画整理され均質化した街や人間、生活の在り方に違和感を抱き、そこを原点に人間の身体性や現代におけるアイデンティティの在り方について考察している。2011年TokyoMidTownAwardグランプリ、六甲ミーツ・アート芸術散歩公募大賞など受賞。

 

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