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ビジュアルレビューマガジン

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内部と外部、上と下、群や類を超えて「カペイシャス グループ展 #02 」三木学

展評 アート

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「カペイシャス グループ展 #02 」

出展作家:柴田龍平/茶薗大暉/前田泰宏
会期:2016年1月11日 (月祝)–1月23日 (土) 12:00-19:00
会場:Calo Bookshop & Cafe / Calo Gallery

 

The Third Gallery Ayaに渡邊耕一さんの展覧会を見た後、同じビルの5階にあるカロ-ブックショップ&カフェで、「カペイシャス」の展覧会を見た。カペイシャス(capacious)とは、包容力のある、容量の大きい、などの意味で、「大阪府内の障がいのある人が制作する作品を紹介するプロジェクト」とのことで、今回の展覧会がカロで開催されるのは2回目となるが構成メンバーが異なる。

capacious −カペイシャス−

 

いわゆるアウトサイダー・アート、アール・ブリュット(生の芸術)といわれる展覧会に入るだろう。もともとは、フランス人画家・ジャン・デュビュッフェによって、評価され、命名されたことに端を発する。近年、アウトサイダー・アート、アール・ブリュットは、世界的な潮流だといってよい。2013年のベネチア・ビエンナーレでは、多くのアウトサイダー・アーティストが招聘されていた。

 

そもそもアウトサイダー・アートは、日本(印象派)、アフリカ(キュビスム)、無意識(シュールレアリスム)など、西洋美術の外部にあった価値観や見方を取り入れることによって、表現の革新を目指す系譜として、知的障害者などが描く作品も評価されてきた。しかし、20世紀半ば頃までは、あくまでそれらを取り入れた西洋人の表現であったのが、20世紀後半になると、「大地の魔術師たち」展のように、西洋人と非西洋人の作品を同列に展示することで相対化していく潮流が出来てきた。今日のアウトサイダー・アートの隆盛は、その流れの中にあるといえるだろう。

 

しかし、アウトサイダー・アートという名前自体が、外部性を明示化しているという指摘もある。また、アウトサイダー・アートは、芸術家としての正統な訓練を受けてない人々を含めるため、いわゆる知的障害者や精神障害者のみを対象としたものではなく、子供や受刑者、専業にしていない日曜画家など様々な人々が含まれる。

 

とはいえ、日本はそもそも西洋社会から見れば、未だ外部である。となると、日本のアウトサイダー・アートは、西洋美術の外部としての日本の現代アートのさらに外部ということになってしまう。その証拠に日本の現代アートですら、確固たる市場ができていないという現状もある。明治以降、階級がなくなり、さらに財閥や大地主が解体された戦後の日本においては、サブカルチャーが主流となり、現代アートはマイノリティであり、アウトサイダー・アートはさらにマイノリティと言っても過言ではない。

 

また、知的障害者のすべてが絵が上手いというわけでは当然ない。自閉症などの知的障害を、スペクトラム(連続体)というように、障害の程度や種類は多様である。アウトサイダー・アートの隆盛は、健常者(がいると仮定して)と比較して、芸術性が高い人々という類型を生んでいるのは事実だろう。芸術性があって無垢、というイメージは多くの人がもっているステレオタイプであり、それらが障がい者たち(関係者を含め)を苦しめる要因になることもある。

 

しかし、芸術性が高い、というのはあながち嘘でもないというのも事実である。おそらく、健常者とは異なる脳の経路を使って、知覚や認知を行うことで、凡庸な発想を逸脱している確率は高い。ただし、これは一般に健常者とされる、芸術家にもいえることで、芸術家にも発達障害者はかなり含まれており、スペクトラムの枠内にいる可能性は高い。 要は程度問題なのではないか、ということはいえる。

自閉症の人には、世界がこうやって見えるんだ。(研究結果)

 

その延長線上に、完全な健常者などは存在せず、すべての人が広義のスペクトラムに入るので、区別する方がおかしく、芸術作品として素晴らしいかどうかだけを論じればよい、という態度がある。下手に障がい者やアウトサイダー・アートと明示することで、見る側の方に先入観が芽生え、「無垢な眼」を失ってしまうという矛盾があるからだ。おそらく、絵画として普通に並べられたら、単にアーティストの作品として評価するだろう。しかし、フラットに並べられたら、それはそれで資本主義の競争社会に放り込まれることになる。

 

だから、どこかで線引きをして、障がい者として認知しないと、支援を制度化できないので、障がい者のアートですと明示化しないといけないという難しさがある。山下清のような例を除き、日本において、アウトサイダー・アートやアール・ブリュットが認知されるようになったのは近年のことなので、日本社会の中で、障がい者のアートをどのように受け入れていくか、というのはこれからの課題だろう。

 

カペイシャスが興味深いと思ったのは、障がい者支援として、現代アートの支援と同様の方法を採用していることである。カペイシャスの事務局は、アート大阪(ART OSAKA)という、毎年、ホテルでアートフェアの事務局を行っているOFIICE Nが行っており、現代アートの市場を作ることを長年続けてきている。

 

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ブックカフェの空間に溶け込む展示風景

 

カペイシャスにおいても、販売が前提となっており、アート大阪で養われたノウハウはかなり役立つであろう。アーティストや出品作品も、選抜されている印象を受けた。ギャラリーではなく、ブックカフェに展示するところも、無用な壁を取り払う工夫がされていると思えた。現代アートの市場の醸成も途上の日本において、非常に挑戦的な試みであると思うが、是非地道に続けてもらいたい。

 

 

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柴田龍平《湾岸戦争》2012
このタイトルは、掲載時に気付いた。湾岸戦争における何の数字を記入したのか?黒地に主に白文字で描かれた意図も意味深である。タイトルでいっきに作品は政治性を帯びる。

 

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柴田龍平《My favorite》2013 部分
《湾岸戦争》とうって変わって、作家の好きなAKBなどのCDの曲の演奏時間とその合計時間が記述されている。数字の色や上から塗られた色が華やかなのは彼女たちの印象とリンクしているように思える。

 

さて、前置きが長くなったが、個別の作家についても、いろいろ興味深いところはあったので記載しておく。柴田龍平の作品は、数字を羅列しているように見えて、誕生日や曲の長さ、スーパーのレシートなど、身の回りにあるすべて意味のある数字であり、それらを暗算で合算し、電卓で答え合わせをしながら記述する。遠目から見えると、左から右にゆるやかに流れるストロークに見えるのだが、近寄ると豆粒のような数字が書きこまれている。サヴァン症候群といわれる、驚異的な計算能力と記憶力を持っている可能性は高いが、小さな数字の羅列なのに、絵画全体として構成されて見えるようなところが興味深い。絵画の全体像はどの時点で認識しているのか、気になるところである。

 

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前田泰宏《石灰華の滝》2014

 

前田泰宏は、旅行先の風景を描いてるが、ややストロークの長くて大きい点描画風のタッチで、新印象派からフォーヴィスムに至るプロセスのような作風である。出品されていたモチーフも、滝、鍾乳洞、海岸であり、水辺に関心があるのも、印象派の系譜に近く興味深い。本人は美術史のことをふまえているのか、知らずに描いたのかわからないが、知らなくて描いていたとしたら、超細密な点描画によって、網膜で混色させる科学的印象主義といわれた新印象派の技法(補色の組み合わせはあまり見られないものの)に近くなっていることは、知覚の秘密を垣間見るようである。

 

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茶薗大暉《untitled》2015

唯一、人体を描いている茶薗大暉は、ファッションショーで、モデルがランウェイをウォーキングしている様子を戯画的に描いている。他にも仏像、文楽、歌舞伎、浮世絵にも関心があるようだが、戯画的なポージングをしている人体像ということでは一致している。ファッションショーのウォーキングは、確かに日常生活にはなく、演出的であり、そこに戯画的な要素がある事を突き付けられ、ハッとさせられるものがある。美しいけれども、滑稽でもある、というファッションショーのカルチャーを描写しているともいえ、当人がどう思って描いているかはわからないが、文明批評的ではある。

 

障がいの度合いは多様であり、連続体なので、程度はわからないが、彼らの描く絵画には確かに知覚の秘密にかかわるもの、普段当たり前と思っていることのおかしさ、など、様々な示唆的なものが含まれている。特に僕の場合は、色彩研究をしている関係上、日本人の色彩感覚にはあまり見られない配色が見られることが多いため、外部環境よりも内部環境(脳)の影響が多いと感じる。これは今後の課題として、また詳しく分析していきたいところである。

 

このような試みが、将来的に、群や類としてではなく、それぞれが1人の個性ある芸術家として認知されるようになれば成功したといえるだろう。一人でも多くの作家が、アートの上の冠がとれる日が来ることを期待したい。