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建築家と大工-契約と法律を巡って「国立競技場再コンペ(7)」三木学

 

日本の近代建築〈上 幕末・明治篇〉 (岩波新書)

日本の近代建築〈上 幕末・明治篇〉 (岩波新書)

 

 

日本の近代建築〈下 大正・昭和篇〉 (岩波新書)

日本の近代建築〈下 大正・昭和篇〉 (岩波新書)

 

 

新国立競技場のデザインについて、まだ収束の目処は見えていない。ザハ事務所は、JSCに対して著作権を含む知的財産権侵害について、具体的な箇所を上げて書類を送っていると報道されており、今後A案を採用した場合、ザハ事務所が法的手段に訴える可能性もゼロではない。現在は双方が弁護士を介して協議している最中だろう。

 

先日、外国特派員協会行われた、A案チームの隈研吾氏の記者会見では、ザハ案とは似ていないという主張がなされたが、問題となっているのは外観や印象ではなく、スタンドのデザイン、設計についてであり、設計データの流用が行われたかどうか、にある。IOCは新しいA案のデザインに対して高く評価しているようだが、外観を評価しているのか、スタンドを含めた競技場全体を評価しているのかわからない。

隈研吾氏、ザハ氏に反論 新国立デザイン案「全く違う」:朝日新聞デジタル

IOC、新国立デザインなど評価 - 共同通信 47NEWS

 

法的にザハ事務所が有利なのか、JSCが有利なのか、いろいろ憶測が飛んでいるが、デザイン監修という、名称的にやや実務から離れた印象を受けるザハ事務所の役割と、日本の設計会社、施工会社との役割分担がどうなっていたのか、それよりもっと重要なのは具体的な契約内容であり、それがわからないと判断はつかない。少なくとも、ザハ事務所は意匠だけではなく、設計に関して広範囲に知的財産権を持っていることは、白紙撤回時に報道されている。それを知らずして、著作権があるかないか、というのは不毛な議論である。法律違反をしていなければ、契約が上位にくるので契約を見ない法律議論はほとんど意味がない。

 

2015年7月18付の日経新聞の朝刊においては、以下のように報道されている。

 JSCによると、ザハ氏側にはこれまで基本設計や実施設計などに伴うデザイン監修料13億円を支払っており、さらに数億円の契約を交わしている。JSCは今後ザハ氏側と調整を進めるが、既に支払ったり、契約したりした分の代金は返還されないという。

 このほか、新競技場のために確保していたスタッフの人件費などを追加で求められたり、損害賠償を請求されたりする可能性もあるという。

 さらにザハ氏側は一連の設計に深く関わっていることから、競技場全体だけでなく屋根やスタンドなどのデザインについても知的財産権を持つとみられる。この権利は一定期間保護され、無断で模倣できないため「もし次に似たようなデザインが採用されたら、ザハ氏側から設計や工事の差し止めを求められる懸念もある」(JSC幹部)という。

 

これは当時のJSC幹部から取材した内容であり、7月の取材とはいえ、現在の報道機関でほとんど取り上げられないのは謎である。ザハ事務所が主張しているように、契約上はほぼザハ事務所にあると考えた方がいいだろう。現実的に屋根以外は似たデザインが採用されたため、その懸念が的中しているということである。

 

しかし、このように、設計者が強く主張できるようになったのは、建築家という職能が認められているという前提がある。近代以前は、設計をして実際の施工をしないという職能は日本には存在しなかった。しかし、今回の一連の騒動は、建築家の権利が強くなり過ぎたことによる弊害といえなくもない(残念ながら、それでも日本は西洋的な職能や商習慣とはまだ距離があるから今回のような問題が起こる)。一方で、明治以降、建築家が必死に努力した結果、大工が以前より尊敬されなくなったということも原因としてあるだろう。

 

そのため、マンションの杭打ち偽装でも明らかになった、下請け、孫請けという多重下請け構造も発生している。それは建築家は唯一無二であったとしても、施工が代替可能という前提があるからだろう。新国立競技場においても、ゼネコンがどれだけ大工を手配しているかというように、大工の職能レベルや個性ではなく、匿名性の人数が問題となっている(ちなみに、安藤忠雄は大工や職人の技能の低下や減少の懸念を表明しており、今後日本の建築が立ち行かなくなることに警鐘を発している)。

 

今回の新国立競技場問題を含む建築の状況に対しては、このように日本の近代以降の建築において、建築家と大工に関する矛盾が解消されてないことに原因の一端があるように思える。具体的には建築家の権利に対する理解と、世界的な契約の常識がないこと。大工の職能に関する尊敬がないこと、である。建築家の職能を否定し、前近代的な棟梁ー大工のシステムに戻れ、ということではない。そのようなことは不可能だろう。しかし、建築家の権利、大工の権利の双方を尊重し、貢献度に合わせて、フェアに評価されるような社会にしていかなければならないだろう。現在はその過渡期にあるといえる。