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音楽か音か-「音楽を愛する種」三木学

 

音楽嗜好症(ミュージコフィリア)―脳神経科医と音楽に憑かれた人々

音楽嗜好症(ミュージコフィリア)―脳神経科医と音楽に憑かれた人々

 

 

どこからが音楽でどこからが音かーそのような区別は19世紀までは明らかだったかもしれない。少なくとも西洋音楽では音楽の三要素である、リズム、メロディ、ハーモニーで構成され、歌を含め、楽器で演奏されるものが音楽であったといえる。

 

しかし、20世紀に入り、シェーンベルクが無調音楽(12音技法)を開発し、未来派のルイージ・ルッソロが、騒音楽器イントナルモーリを開発するなど、一般の人間が音楽とは感じられない「音楽」がどんどん増えてきた。決定打は、シェーン・ベルクの弟子でもあったジョン・ケージが4分33秒間、「何も弾かない」という休符だけの三楽章の作品《4分33秒》を発表し、観客の発するブーイングや足の音、環境音さえも音楽だとしたことで、音と音楽の境界は「概念的には」なくなってしまった。

 

「あなが聞いたすべての音が音楽です」といった、ジョン・ケージの革新的でコロンブスの卵的な発想により、結果的に今まで無視されてきた環境の音に耳が傾けられるようになった。それはマリー・シェーファーのような、音をエコロジー的観点から捉えなおす、サウンド・スケープ(音の風景)の展開へと繋がっていき、今日の都市や自然環境の音を再評価する運動を起こす機会となった。

 

しかし、一方で音楽と音はやはり違うのではないか?という素朴で直観的な疑問は未だに残っている。最近の脳科学や認知科学の発展により、脳における音楽と音の処理の部位や音楽と言葉の処理の部位の違いも明らかになってきたようである。

 

gigazine.net

 

神経科学者で著名な医学エッセイストである、オリヴァー・サックスの『音楽嗜好症(ミュージコフィリア)』の序章には以下のような文章がある。

 

人間の音楽の起源はもっと理解しにくい。これにはダーウィンもどうやら困惑したようで、『人間の進化』にこう書いている。「楽譜を作る楽しみも素質も人間にとってはほとんど無用の能力なので…最も不可解な才能の部類に入れなくてはならない」。そして現代では、スティーブン・ピンカーが音楽を「聴覚のチーズケーキ」と呼び、こう問いかけている。ポロンポロンと音を立てることに時間とエネルギーを注いで、どんなメリットがありえるのだろうか。…生物学的な因果に関するかぎり、音楽は無用である。…音楽が人類から失われたとしても、その後の私たちのライフスタイルはほとんど変わらないだろう。

さらに続きがある。

ピンカーは(そしてほかの人たちも)、私たちの音楽の能力-少なくともその一部-は、ほかの目的のためにすでに発達をとげた脳システムを利用して、または取り込んで、あるいは勝手に使って、可能になったものだと感じている。このことは、人間の脳には単一の「音楽センター」が存在せず、脳全体に散在するたくさんのネットワークが関与しているという事実と符合する。非適応的変化というやっかいな問題にはじめて真っ向から取り組んだスティーヴン・ジェイ・グールドは、これは適応ではなく「外適応」と呼び、音楽をそのような外適応の明確な例として挙げている(ウィリアム・ジェイムズが音楽などの「より高次な審美的、道徳的、知的生活」の諸要素に対する人間の感受性を、「裏階段から」心に入ったものだと書いたとき、彼らの頭のなかにもグールドと同じようなものがあったのかもしれない)。

 とはいえ、このような話-人間の音楽の能力と感受性が、どの程度生来のものなのか、ほかの能力や性向の副産物なのか-に関係なく、音楽はあらゆる分化において基本であり核である。

 私たち人間は言語を操る種であるのと同じくらい音楽を操る種なのだ。このことはさまざまな形となって表れる。私たちはみな(ごくわずかな例外はあるが)、音楽を認識する。音質、音色、音程、和音、そして(おそらく最も基本的な)リズムを認識する。脳のさまざまな部位を使って、頭のなかでこれらを統合し、音楽を「組み立てる」。そしておおむね無意識に行われる構造的認識に、たいてい激しく深い感情的な反応が加わる。

 

 音楽ははたして、生存にとって不要で、生存に必要な適応のために身につけた能力の余剰を使って作られているのだろうか?

 

しかし、聴覚野に音楽を処理する部位があるように、おそらく音楽は生存に必要なものであった可能性は高いだろう。それが音と音楽を聴き分ける能力になっていったのではないだろうか?オリヴァー・サックスの『音楽嗜好症』は、さまざまな障害や病気、事故によって発症した、今まで知られていなかった音楽に関する多種多様な症例が紹介されていて興味深い。それらは音楽が「嗜好」の問題とされてきていたため、今まで表に出てこなかった。ましてや音楽家ならば、自分が発症した病気を隠したがるものだ。人間が持つ特別な「音楽嗜好症」の謎はこれから明らかになっていくに違いない。

 

さらに、20世紀に拡張された音楽が、脳の処理の中でどのような判断が行われているかは興味深い。いくら音楽と作曲家がいったとしても、音楽の部位で処理されてなかったら、音楽としては認識されていないだろう。我々の脳は音楽なのか音なのか瞬間に峻別しているはずである。もちろん、人によってその結果は異なるだろうし、ある程度の幅はあるだろう。時代による遷移もあるかもしれない。しかし、脳が音楽と判断しているかどうかは一つの指標になるかもしれない。それは我々の種が、音楽を獲得した起源とも大きく関わっているのだ。

 

参考文献

 

音楽嗜好症: 脳神経科医と音楽に憑かれた人々 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

音楽嗜好症: 脳神経科医と音楽に憑かれた人々 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)