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「江戸時代=粋(イキ)は本当か?」三木学

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江戸時代は奢侈禁止令という、ぜいたく禁止令が多発されたため、派手な色が禁止された。その結果、「地味」である茶色や灰色の微妙な差異の色が無数に生まれ、「四十八茶百鼠」と形容されるくらいだった、というのが日本の色彩史ではよく書かれていることだ。

 

伝統的な植物染の第一人者として知られる吉岡幸雄の『日本人の愛した色』(新潮選書)には、文献からは茶色は80種、鼠色は70種が確認できると述べられている。茶色は当時人気の歌舞伎役者の色などがつけられいるが、青茶のような、暖色と寒色を組み合わせた矛盾した色もあり、実際の色がどのような色だったのかすべては確認できないだろう。しかし、茶色、鼠色という名をつけることで奢侈禁止令の範囲内で出来る限りのバリエーションを作っていたことがわかる。

 

また、派手な色を裏生地にして、表面からは見えなくすることも流行したとも言われている。それは粋の文化とつながる。

 

しかし、その頃の上方はどうだったか?どうもそうでもないらしい。権力から遠い上方には奢侈禁止令もそこまで効力はなく、そこそこに派手だったということがわかってきているようだ。

 

奥野卓司の『江戸時代「粋」の系譜』(アスキー新書)には以下のように書かれている。

「江戸時代の文化の多くが、上方で創造された。そののちに、多数の文化的要素が、上から江戸に下る。歌舞伎や人形浄瑠璃も、もとは上方で生まれたが、それが江戸に下り、とくに歌舞伎では、江戸で元禄時代市川團十郎が「荒事」を完成し、文政時代に鶴屋南北、末期に河竹黙阿弥らによって、独自の江戸の歌舞伎に発展した。清酒も、京都市中の酒は宮中に収めていたが、伏見と摂津の灘の酒は江戸へ下り、下り酒となった。同様にして、醤油も上方から江戸に下った。これらによって、上方のナレズシに対し、江戸では早鮨、江戸前鮨が生まれた。そして、この過程で、同じ文化要素であっても、江戸は「粋(イキ)」、上方では「粋(スイ)」が良しとされたように質的にはかなり異なったものに変容した」

 

色彩文化も我々は単線的に考えがちだが、国によっても地域別にかなり違う。今年、400年記念とされている、色使いの上手い琳派も京都で発祥し、江戸に受け継がれた。江戸時代=粋(イキ)という見方も見直さなければならないだろう。

 

参考文献

日本人の愛した色 (新潮選書)

日本人の愛した色 (新潮選書)

 

 

江戸「粋」の系譜 (アスキー新書)

江戸「粋」の系譜 (アスキー新書)

 

 

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