「大大阪と極彩色」三木学
『明治大正史 世相編』で、「天然の禁色」と民俗学者の柳田國男が指摘した、明治時代以前の日本は、天然染料のため、彩度の高い色を作れなかった。だから必然的に派手な色にも限界がある。それを「天然の禁色」と称したわけだ。
明治以降、急速に欧米の合成染料が輸入され、「天然の禁色」は解放されるようになった。しかし、日本が独自の合成染料を作り、庶民に普及するためには時差があった。おおよそ、それが庶民に定着したのは、大正時代から昭和初期あたりと言われている。そのとき、日本の着物は非常に派手な配色となり、現在、アンティーク着物として注目されている。
派手な着物が、日本で多く着られていたのはどこだろうか?おそらく、時期的に日本で一番、成長し豊さを享受し始めた大阪かもしれない。関東は1923年に関東大震災が起こったので、復興までに時間を要した。大阪はその間、日本で人口が一番多い都市となり、経済的にも発展した。大阪市域が拡張されたため、「大大阪」と称された。現在ではその時代を大大阪時代と呼んでおり、残存する近代建築が人気を呼んでいる。
大阪の近代建築は、東京のように国や行政機関が建てたものではなく、民間企業が建てたものが主であり、施主の趣味によって趣向が凝らされているのも特徴だ。それはヴォーリズの建てた大丸百貨店心斎橋店もそうであり、独自のアールデコ風のデザインが散りばめられていた。そこに心ブラと呼ばれたショッピングに行ったのが、派手な着物を着た女学生や、モガ・モボと言われたアールデコ風のファッションに身を包んだモダン・ガールだったのだ。
江戸の上方から続く派手好みの気風は、大大阪時代に再び花開く。日本は、常にモノトーンの色と、彩度の高い色の好みが交互もしくは、趣向の違う人々の間で並行的に現れる。80年代のブランドのモノトーンブームと、ホコ天の派手な若者の服はそのような例だろう。しかし、大阪は常に派手な色を好む傾向があるといえるかもしれない。
参考文献
新装改訂版 日本のファッション (青幻舎ビジュアル文庫シリーズ)
- 作者: 城一夫(共立女子短期大学名誉教授),渡辺直樹
- 出版社/メーカー: 青幻舎
- 発売日: 2014/03/03
- メディア: ペーパーバック
- この商品を含むブログを見る
関連記事