ボケていることの自然「近眼と写真」三木学
僕は結構、目が良くない方だ。いわゆる近眼であるし、乱視も少しはいっている。0.0?だったと思うが、正確には覚えていない。しかし、日本人は特に目が悪い人が多く、それは日本語の複雑さに起因があるという説を聞いたことがあるが定かではない。
かつて外国の新聞でも映画でも、日本人といえば、小さくて眼鏡をかけており、出っ歯だった。そういう意味では、僕は今でもそのステレオタイプの日本人に当たるかもしれない。
明治以前の日本人はどうだったのか?そこまで目が悪いという話も聞いたことがないので、明治以降の学校教育やメディア環境が近眼を増加させたのかもしれない。今や、小さい頃からスマートフォンを見続けているので、かつてより目の悪い子供は増えているかもしれないのだが統計的にはどうなのだろうか?
ただ、昔から考えていたことだが、眼鏡を外すとレンズによる強制がなくなって気持ちがいいし、適度に世界がボケて見えるのも一時的なら悪くはない(常時なら当然生活に支障が生じるので耐えられない)。なにより、自分にとっての自然な見えは、このボケた世界なのだ。
写真界では、ブレボケ写真というのが70年代に流行した。ピント(フォーカス)があったシャープで鮮明な写真に対するアンチテーゼ、新しい美学として迎えられた。
ブレボケにも、被写体にピントが合ってないことによるピンボケ(被写界深度の中に入っていないこと)、手持ちでカメラを撮影したとき、シャッターが下りる間にカメラを動かしてしまう手ブレ、被写体がシャッター速度よりも早く動いた時の被写体ブレなどがあり、その複合な要因でブレボケが起こることもある。
ブレボケ写真を好んで撮影していた人は、目が悪いことが原因ではなく、それを効果として狙っていたわけだが、目が悪い世界を表現することもいいのではないかと最近考え始めてきた。つまり、正確にはできないが、自分のボケをある程度再現した写真ということである。それは固定的に見える現実を、少しだけぼやけた世界に変えてみせることになる。
それは世界の見え方の多様性を表すことにもなるかもしれない、ということもあるし、そこまで大上段ではなくとも、ボケた写真でも面白いかもしれないということもある。特に、ピントが正確な写真に対するアンチテーゼでもなく(こちらにすればピントがボケている方が正確なのだから)、正確に?ボケた写真を撮影してみたたらどうかと考えている。
もちろん、撮影時には眼鏡をかけて良く見えるようにした上で、わざわざピントを外すという面倒なことをするので、そこに矛盾があると言われればそれまでなのだが…。
そういう写真を、近眼写真と一応名付けてみたいと思う。
そのことを友人に言ったら「老人力」みたいなもの?と言われた。「まあ、そうかな」と答えたもののどうかはわからない。その場には、色弱者(おそらく赤系統〜緑系統の色弁別が困難)の画家もおり、人間の見え方の多様性について議論をしていた。これも人間の見え方の探求の一環として考えてもらえれば幸いである。
最初の写真を少し引いて撮影したもの。鉄塔の写真でした。