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すべては手塚治虫から始まった。『ニッポン戦後サブカルチャー史 SFは何を夢見るか?』三木学

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戦後日本をサブカルチャーの観点から読み解く、NHKEテレの『ニッポン戦後サブカルチャー史』のシーズン2が始まっていいる。宮沢章夫を講師として、時系列的に読み解いていったシーズン1も面白かったが、宮沢章夫を含め複数の識者によるシーズン2では、より多様な観点やテーマから解説されていく。

 

1回目はまだ見ていないのだが、第2回目は『SFは何を夢見るか?』と題して、書評家、翻訳家、SFアンソロジスト大森望によって、SFが戦後サブカルチャーに及ぼした影響が詳しく解説された。SFとはサイエンス・フィクション、空想科学と訳されりするが、いわゆる科学的な知見を踏まえた創作のことである。

 

特に興味深い観点は、手塚治虫が日本のSF作家第一号である、と述べていた点である。確かに、『鉄腕アトム』を含めて、明らかなSFに入るのだが、子供だけではなく、大人もSFだと誰も感じていなかったかもしれない。それが手塚治虫の偉大なところだともいえる。

 

当時、SF作家が存分に力を発揮できる場所はなく、豊田有恒などを虫プロに誘ったのも手塚治虫である。手塚がアニメという新ジャンルとともに、大衆に無自覚のうちに浸透させたSFは、大阪万博によって一つの頂点を迎える。大阪万博では、小松左京をはじめとして、多数のSF作家が集結しており、多くのパビリオンで上映されていた映像の脚本や展示の構想は、SF作家によるところが大きい。

 

大阪万博は、幼少期にその強い影響を受けた世代が社会の中心になる、2000年代くらいから再評価され、様々な分野で日本を代表とするクリエイターが参加していたことが知られるようになった。特に視覚的なイメージが強いので、建築や美術の観点からの再評価は多かったが、構想や脚本などに携わったSF作家にはそこまでスポットは当てられてなかったかもしれない。しかし、大阪万博手塚治虫が切り開いた近未来への空想が、現実化したものと思えば、それが本流だったといえるかもしれない。

 

全体構想やシンボルゾーンのお祭り広場の諸装置に携わった、建築家の磯崎新は、まさにお祭り広場での動く舞台装置として、ロボットのデメとデクを設計する。磯崎新は、万博のプロジェクトを進める際、東京と大阪の新幹線の中で熱心に読んでいたのは、P・K・ディックなどのSF小説だったことを後述している。小松左京は、万博の誘致にもっとも熱心だったSF作家であり、岡本太郎が総合プロデューサーとなった、太陽の塔を含むテーマ館の地下展示なども担当している。

 

大阪万博は、見た目からも最新建築の展示会の側面が強い印象であるが、それはSF的想像力に裏打ちされたものであることは確かである。それを考えると、すべては手塚治虫の手の平の上で大阪万博は行われたものかもしれず、同時に、日本の戦後サブカルチャー自体、手塚治虫が作ったものと言っても言い過ぎではないかもしれない。

 

番組では、1945年の敗戦から1970年の大阪万博までの25年と、1970年から1995年の新世紀エヴァゲリオンまでの25年を一つの節目として解説していた。1995年はもちろんエヴァンゲリオン公開の年かもしれないが、阪神大震災オウム事件が起きた年であり、明るい未来を謳っていた大阪万博を境に暗い未来が始まり、ついに現実化した年だといえるだろう。同時に、新世紀エヴァゲリオンの庵野秀明は、使徒襲来のイメージの原点に、大阪万博を挙げており、大阪万博に影響を受けた世代が、新しい創造で社会に影響を与え始めた年でもあるだろう。

 

サブカルチャーのクリエーターだけではなく、手塚治虫大阪万博が科学者に与えた影響も計り知れない。『鉄腕アトム』を見てロボットを作りたいと思った子供は数知れないし、実際、現在ロボット開発に携わっている日本人で、手塚治虫の影響を受けていないものはいないだろう。

 

それだけではない。先日受賞が決まったノーベル物理学賞梶田隆章さんも、幼少期に『鉄腕アトム』を見て、お茶の水博士になりたいと思ったのが、研究者の道にいくきっかけだったと報道されている。すでに、手塚治虫の想像力は、サブカルチャーの枠を大きく超え、工業製品や医学、物理学など科学技術の担い手を育て上げたことの力強い証明になったといえるだろう。

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そうい観点から考えても、日本の漫画やアニメが作り出す想像力の偉大さは、今後ますます明らかになっていくのではないかと思う。それは文系や理系などといった狭い専門性を超えた想像力の根幹のようなものである。