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コミュニティのための本当のデザインとは?「新国立競技場と復興計画」三木学

realkyoto.jp

新国立競技場問題について、浅田彰さんがREALKYOTOのブログで意見を述べており話題となっている。現在までの流れを包括的に論じており、草地すればいい、という結論については非現実的だとしても傾聴に値する。

 

それよりも、本論に付随する付記1~3に対して、今日の建築デザイン業界についての高い批評性が現われているといってもいいだろう。

 

特に付記3については、近年話題となっている「コミュニティ・デザイン」について鋭い指摘を行っている。建築の分野におけるコミュニティ・デザインとは、特に公共建築のような公的な建築において、建築家の作家性を前面に出すのではなく、帰属するコミュニティの要望をワークショップなど、様々な方法で聞き取り、建築デザインに反映させる手法であり、極端に言えば、建築を建てずにイベントなどを行い、コミュニティを活性化するというモデルを提示する場合もある。

 

浅田さんはその方法論における矛盾を指摘しており、「では、不特定多数の複数の要望が出た場合、それらをどのようにまとめるのか?」と疑問を呈している。そして、予め反論も想定しながら、「民主的な話し合い」に巻き込み、折衷的な当初案を実現するのは、行政官僚の常套手段であり、そことの違いがわからないと表明している。

 

そもそも民主的なデザイン手法は、近代的なデザインの反発、カウンターとして出てきたものであり、戦後に作られてきた、環境無視の作家性の強い(あるいは無色透明の)建築群によって街の景観は統一感や連続性はなくなり、地方自治体が乱造した建築は、コンテンツの無い無用の長物として、箱モノ行政の象徴となってきた経緯がある。「コンクリートから人へ」という民主党のスローガンも田中角栄以来の土木行政への反発が下敷きにある。

 

その結果、東日本大震災後の建築家の動きは、コミュニティに分け入り、台頭したコミュニティ・デザインの手法を使って、伊東豊雄の推進する「みんなの家」のようなささやかな試みや過度にコンテキストに依存したデザインを行ってきたように見える。それ自体はコミュニティの憩いの場の役割をはたしてきただろう。

 

しかし、そのような小さな試みの裏で、万里の長城のような長大な堤防やかさ上げが進んでおり、類例のない土木事業によって、街の風景は一変していっている。それらは行政区ごとに住民の異なる判断がなされており、性急に決断された計画はドンドンと進んでいるという状況である。そこには、もはや長期的な視野や広域の復興計画などのマクロなグランド・デザインの視点を欠いており、東日本以外の地域どころか、当の被災者すら全貌が理解できていない状況になっている。「日本列島改造計論」ならぬ「東北改造論」なきと東北改造だといってよい。


それに対して、ミクロなコミュニティにソフトに介入する方法論は、建築家や都市計画家が、善玉とみられたいがための偽善であり、「東北改造計画」のような巨大計画を提案しないことよりも、有害になっている可能性があるのではないか、というわけだ。恐らく黒川紀章が生きていたらなら、メガロマニアックな「東北改造論」をぶち上げ、奔走していたに違いない、というのもうなづける。

 

個人的にも、東日本大震災が、その類例のない被害範囲の広さや、原発事故による放射能汚染のような現在進行形の複雑な要素を含んでいたとしても、関東大震災後の「帝都復興構想」のようなものが、政治家や建築家、都市計画家から上がらなかったのは謎であった。後藤新平の震災復興再開発事業は、大幅に規模が縮小されたものの、区画整理などや交通網は、現在の東京の基盤となっている。

 

被災していない地域でさえ、多くの地方自治体は「消滅可能性都市」として多くが再編されるだろう。ジリ貧であった東北の沿岸地域を復興するのは、「元に戻す」あるいは、「安全に暮らす」以上の新たな都市計画、経済計画が必要なのは言うまでもない。

 

また、コミュニティ・デザインといっても、災害時のコミュニティの要望と、中長期的なコミュニティの要望は変化していく。しかし、コミュニティが継続可能性、存続可能性を求めていることは変わらないだろう。

 

そのような最大公約数のニーズを踏まえた上で、東北全体が連携できるような復興計画をマクロ的な視点で提案すべきだろう。それができるのは、建築家なのか、デザイナーなのか、企業家なのか、行政なのか、政治家なのか…。はたまたその集合体なのか。未だそのはっきりした影が見えないのは僕だけだろうか?

 

そのような超越的で特権的な権利を誰が持つのかという議論はある。コンペで選ぶべきなのか、選挙で選ばれた政治家が選ぶのか。必ずしも建築やデザインにおいて、民主的なアプローチが駄目だということはない。どの時点で民主的なプロセスを経るかが重要なのであろう。浅田彰さんが言うように、コミュニティに帰属する不特定多数の意見を聞きながら、デザインを提案するということであるならば、結果的にコミュニィのためにならないプランが遂行されてしまうという危険性についてはよく考えた方がいいだろう。

 

デザインも含めたクリエイティブなものは、フラット化すればよいものができるというものではない。代議士以上に、人より秀でた才能に負託する、というプロセスが最も重要になる。喫緊ではわからなくても、長期的、広域的な視野に立てば、その効果がわかるというデザインもある。建築家や都市計画家、デザイナーが問われているのは、未曾有の災害や国際的イベントに対して、どのようなグランド・デザインを提案できるかということであり、我々が問われているのは、我々自身の意見をすべてデザインに反映させる、という矛盾の実現を要望することではなく、どのような民主的なプロセスを経れば、才能のあるデザイナーに負託できるか、ということだろう。

 

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地方消滅 創生戦略篇 (中公新書)

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