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頭と体の分裂は治癒できるか?-森山高至『非常識な建築業界  「どや建築」という病 』三木学

 

非常識な建築業界 「どや建築」という病 (光文社新書)

非常識な建築業界 「どや建築」という病 (光文社新書)

 

 

未だ解決していない新国立競技場や、基礎杭のデータ改ざんにより、傾斜したマンション問題など、このところ建築業界の信頼低下が著しい。日本の建築家は世界的に有名で、ゼネコンの技術は超一流だったのではないのか?シャープや東芝など、かつて世界を席巻した日本のエレクトロニクスの信頼失墜に近い声が聞こえてきそうだ。

 

そこに構造的問題があるでのはないかというのは誰もが想像はつく。しかし、それを解説するのは一筋縄ではいかない。建築業界の業務は非常に幅広く、それらを網羅的に把握している人は多くはない。

 

建築士なのか、建築士でも意匠(デザイン)なのか、構造設計なのか、設備設計なのか。アトリエ系と言われる、個人の建築家が主宰する建築設計事務所なのか、組織系と言われる、巨大な建築の意匠・建築構造・建築設備・エンジニアリングシステムなどの設計を総合的なチームで行う建築設計事務所なのか。様々な専門業を集約し工事全体のとりまとめを行うゼネコン(General Contractor)と言われる総合建設業なのか、専門性のある下請け建設業なのか。大学などの研究機関に所属しているのか、していないのか。あるいは建築史などを専攻する学者なのか、コスト計算をするコンサルタントなのか、などなど。

 

それらをまたがっている場合もあるが多くは専門性が強いほど横断的な言説は難しい。だからどのポジションにいるかによって(政治的にも)語る言葉も変わるが、素人には真贋がつかない。そういう意味では、本書は今まで不透明であった建築業界を、建築と経済学を修めた著者が、豊富な知識と経験によって、一般市民に分かるように出来る限り明らかにし、問題解決の糸口を示そうとした意欲作である。

 

特に"「どや顔」という病”という副題が興味深い。一見、馬鹿にしているのか、ととられるかもしれないが、顔という人体をアナロジーにしたことは、建築の髄を知っている著者の慧眼であろう。そして、「病」もまた人体のアナロジーである。著者は「どや建築」のことを以下のように定義している。

 

私は、そのような建築を総称して「どや建築」と呼んでいます。見ているほうが気恥ずかしくなるほど得意気な自慢顔のことを、関西弁の「どや?」と掛けて「どや顔」といいますが、それと同じ感情が芽生える建築のことです。どや顔を見せられた誰もが心のうちに芽生える嫌悪感は、ある種の建築を見ても同じように発動します。

 

 建築用語では、建築の正面のことをファサードと言う。ファサードはフランス語であるが、英語に直すとfaceでありまさに「顔」である。そもそも建築は、人体モデルであり、頭があり顔があり体がある。それがモダニズム建築になって以降、箱型になり頭がなくなっていく。モダニズム建築の違和感は、人体モデルから幾何学的形態に還元され、身体性を失ったことにある。そのことと「どや建築」は捻じれた関係にあるので後で補足する。

 

「どや建築」とは、街並みに対して、過度に主張した建築と言い換えることができるだろう。そして、過度に主張する建築は誰によって作られたのか?著者が表現建築家と命名する建築に芸術性や作家性を強く込める建築家たちになるだろう。つまり、「どや建築」は、建築家の「どや顔」の代理表象なのである。これが街並みの調和を崩す一因になっている。

 

一方、建築を構成する要素をできるだけ無くし、幾何学形態に近づけた建築も流行していると著者は指摘する。それも別種の過度な主張だが、それによって、雨漏りなど構造的リスクが増えている。著名な建築家の雨漏りの話はよく聞く。著者はそれらの建築を、宮崎駿の『千と千尋の神隠し』のキャラクターである「カオナシ」に例えている。建築のファサードがツルツルであり、一見無個性のようでいて、その裏に建築家の「どや顔」が見え隠れする。

 

モダニズム建築を突き詰めた挙句、人体モデルはすっかりなくなり、頭と顔と体の境界がなくなり、一体化してしまった建築といえるだろう。しかし、それもまた建築家の過度な主張になっている。このような過度な個性やオリジナリティを主張する建築家の登場を、特に戦後の建築界の言説や教育から著者は読み解いている。

 

そうなった要因として、建築が、建築家同士の同業者評価しかなく、ユーザーの視点が不在になる傾向があることを指摘する(もちろん施主の意向は聞くし、公募の要件は確認しているが、往々にして自己表現が勝り、ユーザーのニーズの反映が欠けている)。これは車や家電のようなコンシューマ商品のように、品質が悪いと売れないというような、大衆によるフィードバック機構が存在しないことも大きいだろう。トヨタがどれだけ大きくなっても、一般大衆を相手に商売をしている以上、常に謙虚でなくてはならない。自己表現を主張し過ぎて、ユーザーのニーズを考慮しなければ売れなくなるし、手抜きをすれば品質が落ちてリコールの憂き目にあい、すぐに経営が傾く。また、プロダクトにおいて、意匠デザイナーがほとんど知られてないことを考えれば、建築業界はバランスを欠いているだろう。

 

また、建築業界の場合、オーダーメイドのビジネスであり、基本的にはBtoBのため、大衆からの市場評価は反映されにくい。マンションなどにしても、販売業者と建設業者は異なるため、消費者から「顔」が見えにくい。マンションなどのような匿名性の建築は別の意味での「カオナシ」だろう。また、大規模公共事業において、複数の専門業者を束ねるゼネコンは、多重下請け構造の頂点に立つが、派遣法改正などの影響もあり、それらを指揮する能力が落ちている、という。

 

人体モデルでいえば、建築家(頭=設計)とゼネコン(体=施工)は分裂し、さらにゼネコンのパーツも分裂しているのが現状の建築業界だといえるかもしれない。そういう状況下において、表現を重視する建築家の自己主張だけ「どや顔」をし続けている。その顔は誰に向けられているのか?本質的には建築家コミュニティであり、市民や大衆ではないといえるかもしれない。

 

著者は最後に、槙文彦の「代官山ヒルサイドテラス」「ワールドトレードセンター4」や青木淳の「リファイニング建築」のアプローチ、景観再生による町おこしで一躍有名になった滋賀県長浜市の「黒壁スクエア」の例を出して、「どや建築」ではない建築業界の常識のあり方を提示している。そして、建築と建築家を評価するためのチャートによって、市民に建築を評価するための尺度を提示している。

 

個別の建築家の評価はともあれ、建築業界の内輪主義や市民を無視した振る舞いが、今日のこのような状況を生み出したことは間違いない。いかに市民が建築を見る目をもち、評価を下すことができるかが、これらの状況を変え、町と建築の病を治すきっかけになるだろう。

 

そういう意味でも、新国立競技場のB案を設計した建築家の伊東豊雄が、新国立競技場と若手建築家に関するコメントは、潮目が変わることを示唆しているように思える。

「新国立競技場の建設計画も、神宮外苑のあの場所で、どういう建築があり得るのか。コストや工期の問題ばかりでなく、それを考えることが何より大切だと思った」と振り返る。

 大震災以降、若手建築家の変化に期待しているという。「僕らの若い頃のように『何かカッコイイものを作るぞ』みたいな人は減ってますね。地方で空き家を改修し何かをつくるとか、地味な活動ですけど、住民らと一緒に考えてゆく建築家が着実に増えている。素晴らしいと思います」

【私と震災】「頑張って新しいまちをつくるぞという意気込みしぼんできた」 建築家・伊東豊雄さん 均質化への懸念も現実に(3/3ページ) - 産経ニュース

 

東北については、都市計画家や建築家が協力して、もっと積極的にマクロな計画を考える必要があると思うが、画一的、均質的な国土計画や意味のない「どや建築」がなくなるのはいいことだろう。社会的な記憶を担い、モニュメントとなる建築はこれからも必要であるし、それに適した表現は今後も必要である。

 

しかしそれは顔だけが主張する建築ではない。健全な頭(設計)と体(施工)の関係を取り戻し、周辺環境を見る目をもった建築であり、本書はその状況を作り出すための処方箋が提示されているといえる。それが実現したとき、建築は相応しい「顔」を持つことができるし、市民も誇らしい顔で付き合うことができるだろう。