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国際的な評価という経験「新しい泉のための錬金術―作ることと作らないこと」(2)三木学

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左からドリュン・チョン氏、小崎哲哉氏、ヤノベケンジ

ULTRA GLOBAL AWARD 2017 Exhibition 12月5日(火)より | 京都造形芸術大学ULTRA FACTORY

 

ULTRA GLOBAL AWARD 2017 Exhibition「新しい泉のための錬金術―作ることと作らないこと」展では、先日、M+の副館長兼チーフ・キュレーターのドリュン・チョンさんと、小崎哲哉さんによる講評に加え、ドリュンさんによる最優秀賞の審査が行われたので前回に追加して報告しておきたい。ドリュンさんと小崎さんによる講評は非常におだやかながら、鋭い指摘が多数なされ、出品作家も大いに勉強になったのではないかと思う。学生や卒業間もないうちからこのような機会をもたせてくれるのは、贅沢というほかない。

 

また、最優秀賞を、国際的なキュレーターが単独で選ぶということは、非常に大胆でユニークな試みであり、先日の公開講評会のメンバーが、遠藤水城氏以外は、京都造形芸術大学で教鞭をとっており、作家の背景を知っていることから考えると、全くの外部者であるドリュンさんには人間関係や忖度が働かず、潔いものだったといえるだろう。後に述べるが、最優秀賞は関係者にとっても意外なものであったが、それが逆に国際シーンにおいてもリアリティのある出来事ともいえ、予定調和的ではなく個人的にはよかったと思う。

やはりある程度、内部事情がわかっていたら、ポジショントークになりかねないし、教え子の代理戦争のようになってはつまらない。美大の欠点は先生に似た作風で、先生より劣った作品を評価してしまう、無意識的な評価軸と縮小再生産の構造であり、そこから逃れるためには、全く関係のない第三者を持ってきた方がよく、ドリュンさんは国際的な視点と経験を併せ持つという意味で、最適な人材であったといえよう。

 

特にドリュンさんの指摘の中で、前回の講評会にも出なかった鋭い意見を下記に列記しておく。

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桑原ひな乃のプレゼンテーション。

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錨には溶接した真新しい鉄の跡が見える。

 

桑原ひな乃の作品《Anchor - 記憶の痕跡》 は、巨大な錨(いかり)を反転させて天井にぶら下げ、床面に鏡面を引いて、波底に沈んだ錨のように見せるインスタレーションであるが、錨に銀色の溶接跡がところどころに見える。そのことについて、意図的かどうか質問がなされた。

答えは、意図的ではないが、巨大な錨を運搬するのに、切断する必要があり、大学に運んでから溶接をして原状回復した後につりあげたとのことだった。ドリュンさんは、もしそれが意図的であるなら、やるなと思ったと言っていた。

個人的にも溶接跡が意図的であるなら、まさに切断された記憶を継いだと言えただろうし、産業遺産となったレディ・メイドとしての錨を切断し、溶接することで新たな価値を加えたということも言えただろうと思った。

陶磁器の世界でも、金継ぎなどをすれば割れた後にでも価値が出ることがある。それは西洋の陶磁器にはないことであり、小崎さんの指摘するように、利休(以降の茶道具)とデュシャンとの共通性を見出したと言えたかもしれない。デュシャンが移動中に割れた『大ガラス』を亀裂が残った状態で修復した行為も「金継ぎ」的と言えるし、本阿弥光悦の金継ぎや形に偶然性を活かした織部焼現代アート的な解釈もできるだろう。

今後、自分の個人史とはだけではなく、近大遺産の切断と溶接というのを一つの手法として取り組めば面白い成果が出るかもしれない。

 

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梶原瑞生のプレゼンテーション。小屋の中で流されるアニメーションには、オリジナルの言語によるナレーションがついている。

 

梶原瑞生の作品《メデュホドン高原から》では、アニメーションの字幕に、自身が考えた言語による聞き取り不可能なナレーションがついているが、そこにルールがあり、言語として成立しているのかという質問がなされた。ある程度ルールはあるが言語としては成立していないという回答であったが、これがエスペラント語のような近代的な創造言語や、象形文字も含めて自身が発案した言語であれば面白い展開になっただろう。
彼女のリサーチテーブルに、トンパ文字に似たオリジナルの象形文字が、アイディアスケッチとして描かれていたので、もう少し言語の起源を考察すれば面白くなると思えた。

言語自体が、世界の認識を司り、「言語が思考を決定付ける」(言語的相対論の提唱者のウォーフは「言語は認識に影響を与える思考の習性を提供する」としている)とする言語学の流れもあり、認識や価値にかなりの影響を与えることは間違いないので、思考の「創造」にまで視野に入れたデュシャンの探求の延長線上にあるものと言えただろう。

また、ユングの元型論に影響を受けたと言っていたが、キリコ風の人物や西洋風のお城(あまり遠近法はゆがんでいないが…)と、インド風の意匠といったイメージは、ややステレオタイプのイメージなので、自分のイメージソースを洗い出す作業を一度行ってもいいだろう。

 

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坪本知恵のプレゼンテーション。高さが均一で幅が広狭あり、バーコードのように見える。

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キャンバスがコードとすれば、拡大したら(近寄れば)文字が見えるというようにも読み取れる。

 

坪本知恵の作品《種》は、講評室でインテリジェンスがある、と指摘されていたものの、原風景としていた安藤正楽の石碑のエピソードと、作品との関連があまり見出されなかったことと、まだまだコンセプトが弱かったので選ばれることはなかった。

しかし、個人的にはバーコードのようにも見える大小の幅のあるキャンバス全体が、実際にバーコードとしても読み取り可能で、ステンシルでプリントされている滝口修造の書籍のコードになっていればかなり面白かったのではないかと思った。バーコードのような機械ではないと読み取れないコードに潜像している文字を引き出すというアイディアならば、社会的なコードに対する考察、コードに対する自己言及のような文脈でも読み取れただろう。是非、次回検討していただきたい。

安藤正楽の石碑のエピソードがあまりに興味深いので、作品よりもひっぱられたことは本人としても本意ではなかったかもしれないが、そのような素材を見つけることもなかなかできないので、今後、別の作品として展開することを期待したい。

 

私事であるが、安藤正楽が愛媛県宇摩郡土居町の出身で、土居町の日露戦争出征者の依頼を受けて石碑を頼んだのだが、その中に義理の祖父の名前が刻まれていることを発見した。確かに、義理の祖父は、日露戦争に出征しており、通信兵として従軍したことを聞いたことがあった。ただ、愛媛県は『坂の上の雲』で有名な、秋山真之秋山好古兄弟などを輩出しており、すっかり日露戦争に対して誇りに思っていると思い込んでおり、安藤正楽という当時では珍しい、非戦・反戦の人権主義者に石碑を依頼していたことは、個人史的な驚きであった。また、リサーチベースのアートのもたらす個人への影響ということを図らずも体験することになった。

 

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内田恵利の映像インスタレーション(一部)。エレベータの入り口に座り、自身の体で止まり、開いて閉じることが繰り返される。4面にプロジェクションされる短い映像クリップには、このようなある程度の身体的「痛み」を伴うものもあり、60年代の前衛的パフォーマンスやヴィトア・コンチ、ブルースナウマンなどの現象学的なビデオ・インスタレーションが想起させられるが、構図や衣裳などを含めて体系化できる余地を残していた。

 

さて、最終優秀賞は、内田恵利の《多分いつかおそらくしかしながら》と橋本優香子の《別の言葉で言い直す(うた)》 が競った上に、内田 恵利が選ばれることになった。この判断については、出品作家や講評者からも驚きをもって迎えられた。内田の選考理由は、「シンプルであり、様々な解釈が可能であること」、「自閉的な反復行為であるが、現代人のどこにも行けない孤独を表象しているようにもとれること」、「日本人で似たタイプが思いつかないこと」、「直観的に制作しており、今後の伸びしろを感じること」などであった。

もちろんどの作家もまだ若く未熟なところがあったが、自分が企画した展覧会に入れるとしたら、ということで内田恵利が選ばれた。

 

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橋本優香子のインスタレーション 。3人の台湾人にインタビューを行い、彼らから出てきた詩や歌などを、半透明な布に縫い込んだ。

 

橋本優香子の場合は、非常に真摯に制作しているが、アジアの作家でも(旧植民地などを含む)アイディンティティをテーマにしている作家は多く、その中で突出した作品ではないこと、調査した内容を表象として表せていないこと、などが差が出たポイントであった。

個人的には、3人の台湾人から印象的な詩や歌を引き出して、縫い込むのは面白いと思ったが、発話されることと記述されることが、文字を縫うという行為に上手くつながっていればよかっただろうと思う。また、インタビュー映像で、抽出された詩や歌が定期的に発話されたり、3つの布や糸を重ねたりつなげたりすることで、3つの世代の意識の共通点や違いなどを表していてもよかったのではないかと思った。どちらにせよ、布に文字を縫い込むという表現方法には、まだまだ探求の余地はあるだろう。

 

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最優秀賞を受賞した内田恵利(中央)

 

ドリュンさんはアートにおいては、表象が重要であることを審査発表後も、出品作家に伝えており、コンセプト倒れであったり、表象に至っていない表現については、評価が下がることをクリアにされていた。その観点から言えば、今回出品作家は丹念に制作に向き合い、調査もしっかり行ってきたが、消化不良のケースも見られた。制作時間の制限もあり、未消化な作家もいたと思うが、最終的にどのようなフォームに落とし込むかは共通した課題だろう。

 

前回の記事では、講評会の厳しい指摘を反映して、少し辛めの評価をしていたが、国際的なキュレーターである片岡真実氏による選抜が行われているので、そもそもみんな「何か」を捉えているのは確かである。

その鉱脈を様々な視点から発掘し、延ばしていければ、大きな飛躍ができるに違いない。それがデュシャン以降のパラダイム変換を作る錬金術になれば言うことはないだろう。是非それぞれの今後の活躍を期待したい。

 

 

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