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デザインコミュニティのためのリデザイン「東京オリンピックとデザインの行方(17)」三木学

www.sankei.com

【五輪エンブレム見直し】選考過程調査報告詳報(下) 「佐野作品は各審査委で一番多数の得票集めた」(1/4ページ) - 産経ニュース

【五輪エンブレム見直し】密室の裏工作、審査映像にくっきり 「嘆かわしい」「応募の労作に不誠実」(1/2ページ) - 産経ニュース

 

東京五輪エンブレムが白紙撤回された件で、外部有識者チームが選考過程を調査していた結果が記者会見で報告された。結論的には、審査委員代表とマーケティング局長、クリエイティブディレクター3名の明らかな不正が認められたことになる。要するに、デザイナー8人に対して公募前に参加要請書を送付しており、事実上の招待デザイナーが存在したこと。招待デザイナーの存在は審査委員代表を含む3名しか知らなかったこと。そして、招待デザイナーのうち2名の作品は1次審査で落ちる可能性が高かったにも関わらず、その事実を知った上で、故意に審査を通した、ということである。

 

2次審査委、最終審査には不正はなく、結論は変わらなかったとしているが、広義の上で出来レースととられても仕方がないだろう。あるいは、公募発表前に要請文書を送ることは、ある種の談合が行われていたともいえる。審査委員代表が、公募すると日本の最高レベルのデザイナーが競い合うコンペを実現できなくなる」という危惧を持ってたため事前要請したとされるが、そもそもこの招待デザイナー8名は、審査委員代表とクリエイティブディレクターの任意で選ばれたものであり、最高レベルのデザイナーというのは主観に過ぎない。

 

また、肝心の応募条件に必要であった受賞歴自体にも問題がある。なぜなら、デザイナーがデザイナーを選ぶ賞がほとんどであり、さらに、受賞したデザイナーは新たな審査委員となって、またデザイナー選ぶという、権威が権威を生むピラミッドになっているからである。

 

このようなある業界が権威の無限階層化を内包することは非常に危険である。受賞歴を増やすためには、デザイナー同士はどうしてもなれ合いになり、他者を客観的に批評できなくなるし、キャリアが長い方が受賞歴が多いため、必然的に年功序列的な権威のピラミッドが構成されていくことになるからである。一番危険なのは、業界の年功者がコンプライアンスを無視しても批判する人がいなくなることと、受賞することによってデザイナー自身が特別な存在であると勘違いしてしまい、尊大になっていく可能性が高いことだろう。これはデザイナーにとって弊害にしかならない。

 

デザイナーは、クライアントの要望を対話及び協同作業をしながらビジュアル的な解決に導くことが仕事であり、受賞歴はクライアントとのコミュニケーションの役には立たない。あくまで、勝ち得る必要があるのは、クライアントの信頼であって、賞ではない。賞を与えるとしても、お金を投じ、協同作業をした一方であるクライアントも含めなければフェアではないだろう。クライアントが優秀だった可能性も十分にあるのである。

 

前回書いたように、デザインだけが消費されることはない。デザイナーが私費を投じ、無から有を生み出して、市場の判断を受けるわけではないのだ。市場の判断を受けるのは常にクライアントの方である。

 

そういうこともあって、デザイナーの功績や優劣がわかりにくいために、デザイナーが賞を作っていき、挙句の果てに賞のバブルとなり、デザイン界自体が権威を再生産するピラミッドとなってしまったのだろう。そして、消費者から一層乖離してしまったとしかいいようがない。

 

審査委員代表が、札幌(五輪)、長野からずっとそうだったと述べているようであるが、デザイン業界はそうやって他者からの厳しい批評を経てこなかったといえるかもしれない。このようなことは、公開性と公平性、透明性が厳しく問われるこれからの時代は難しいだろう。デザインは、資格もなく、消費者から直接判断されることがないので別の権威として賞を必要とする、と以前書いた。しかし、結果的にその賞の存在がデザイナーをゆがめてきた可能性はある。

 

アンフェアで不透明な体質になり、コンプライアンスが徹底されないことが常態化していたとしたら、権威のピラミッドと化したデザインコミュニティのあり方を考え直した方がいいだろう。デザインとはいったい誰のためにあるのか?デザイナーとは何なのか?権威はデザインに必要なのか?新たな「デザインのためのリデザイン」「デザインコミュニティのためのリデザイン」こそが今こそ求められているのだ。