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光と色の新しい質感表現-澄毅展「Existence is beyond the reflection and Transmitted light」三木学

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澄毅さん、自作の前で。

 

先日、パリ在住の写真家、アーティストの澄毅さんが日本に一時帰国して展覧会をするというので連絡が来た。日本で作品展とトークショーなどをするという。京都なので時間がとれれば見に来てくれないか?とのことだったので、日程を調整して伺うことにした。場所は新風館で、今月末で閉館されることになっているので、「PHOTO SQUARE」という、期間限定の写真の作品展示や写真集の販売、交流スペースになっていた。

 

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澄さんとはお会いしたのは昨年のことである。パリから一時帰国する機会に、わざわざ僕の自宅まで遊びに来てくれた。直接面識はなかったが、写真家・美術家の勝又公仁彦さんの知人であり、港千尋さん、勝又公仁彦さんと運営していたshadowtimesのメルマガも購読してくれていたこともあって、関心を持っていてくれたようである。澄さんには、プリントに穴を開けて、太陽に当てて光が漏れる様子を再び撮影する複雑なプロセスを経た作品を拝見させてもらった。僕は澄さんの作品の色彩分析を行い、特徴的な配色分布とその効果を説明し、色彩文化の違いなど、ずいぶん話し込んだ気がする。

 

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穴を開けた古いプリント(広島で被曝した経験のある祖父の写真)を逆光で撮影し、拡大したプリントに無数のスリットを入れた作品。

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部分。角度によって光や質感が変わる。

 

僕は色彩研究をしていることもあって、複数の色を組み合わせる作品では、日本人は西洋人になかなか敵わないことはよく知っている。そもそも日本人が化学染料でできた高彩度の色を見るようになったのは明治以降であり、日本で製造することが可能になり、文化として普及するようになるのはほぼ大正時代以降である。それまでは天然染料だったので低彩度であり、派手な色が禁止されていた時期もあるので、高彩度の配色のバランス感覚は西洋人にはなかなか追いつかないものの、少しは咀嚼できた時期といえるだろう。しかし、戦争を挟んで無彩色の時代が続いたので再び断絶してしまった。

 

戦後はプラスティックやインクなどの極端に高彩度な色が流通するようになったが、街に氾濫している看板や印刷物は、概ね単純化された原色の組み合わせに過ぎない。残念ながら、いわゆる多色配色で世界で勝負できる色彩感覚を持つ日本人クリエーターはほとんどいないだろう。その代り、素材そのものの色を重視し、色を塗ることで素材の質感が失われることを嫌う傾向がある。古い建造物などでも塗り直すことをせず、塗料がはがれ落ちることに「わびさび」のような美を感じるのは、質感が戻ることを評価しているともいえる。

 

この日本人の独特な質感の感覚や色彩文化は、西洋においても異質なものとして理解されている。フランスの著名な紋章学者・色彩学者のミシェル・パストゥローは、以下のように述べている。

 

日本人の感覚では一つの色が青、赤、黄色ということよりも、その色が艶消しか、光っているかということのほうが大切で、こちらの方が一番本質的なパラメーターということになる。だから白をとってみても、(多くのエスキモー語と同じように)違う名前の白がたくさんあって、うんとくすんだ艶消しの白から輝きわたったピカピカの白まである。日本人とは違って、私たち西洋人の眼ではこのすべてを見分けられるとは限らない。第一、ヨーロッパ語の語彙では白に関する語数が少なくて、日本の白を名付けることができないのである。しかし、日本人の感覚にとってこれほど大切な<艶消し/光沢>という対立を西洋がここ数十年で受容した分野がある。印画紙がそれだ。この分野での日本の支配が、私たちを徐々に<艶消し/光沢>とい差に慣らしていった(それよりも前は、写真に関して、西洋人の目はむしろ粒子のきめ、トーンの暖かみということに敏感だった)。それで現像を頼むとき、私たちも日本人のように、<艶消しの紙>とか<光沢のある紙>というようになったのである。

ミシェル・パストゥロー『ヨーロッパの色彩』石井直志、石崎三郎共訳、パピルス、1995、pp.126-127

 

パストゥローが指摘するように、日本人と西洋人の色彩感覚の違いは、写真の印画紙を通じて明らかになったのである。そして、デジタル化した今日においても、プリントという物質を扱う写真芸術やアートの分野において、日本人の質感表現は洗練されていっているように思える。

 

個人的には日本人の突出した質感の感覚を、色彩の中で拡張することは可能だと思っている。色彩の中にも質感はある。だから、以前から色彩に質感を加えることが日本人が世界に通用する一つの道だろうという仮説をもっていた。前回、澄さんにお会いしたとき、直接的ではないが、そのことについては少し言及していたと思う。

 

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「Existence is beyond the reflection and Transmitted light」

 

今回、澄さんが発表した作品は、まさに光と色に質感を加えたものだった。簡単にいうと、プリントにカッターで無数のスリット(切り込み)をいれていくことで、波や髪の毛のような波打つような質感を生んでいる。

 

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以前からの作品の手法に、スリットを入れているバージョンに加え、新作として色付きにフィルター越しにセーヌ河の上を飛ぶ鳥を撮影し、プリントに無数のスリットを入れたシリーズが展示されていた。

 

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スリットがあるので、窓越しに展示すれば、光を差し込み様々な質感が浮かび上がる。しかし、表からの光だけでも角度によって、スリットが様々な模様となって見えてくる。セーヌ河と鳥、カラーフィルター、表面のスリット、プリントの光沢感という複数の層になったイメージが、目のフォーカスによって瞬間に別の層に移り変わる。

 

質感とは、素材などの物質に触る感覚に加えて、それを視覚的に感じることだと言い換えていいだろう。それは手で触る感覚(触覚)と不可分であり、見るだけで触る感覚を予測できるから、それが固かったり柔らかかったり、怪我するのか、しないのかなどが触る前にわかる。非常に生存本能に密接な感覚だといっていいだろう。

 

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窓越しに展示された作品。

 

しかし、澄さんのスリットの作品は、網膜を引っかくような感覚が喚起され、触ったときにどうなるのか想像がつかいない。スリットから差し込む光によって、網膜が直接的に傷つけられるような感覚と言えばいいだろうか?光や色に目が直接触わられるような不思議な効果を及ぼす作品である。だから、触ったらどうなるかという「手の感覚」が反応しないのだ。

 

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部分。反射する風景とスリットが混ざって新たな質感が生まれている。

f:id:shadowtimes:20160323230211j:plainスリットが交わると印画紙が切れてしまうので、微妙に距離が開けられている。ストロークの長さがほぼ決まっているので、端と端の間が斑点のような模様に見え、重なっていたり、盛り上がっているように見える。

 

一方で、澄さんは大きくプリントした作品をカッターで何時間もかけてスリットを入れているというから、手の感覚と分かちがたく結びついているだろう。その逆説が面白い。

 

そして、それを写真で記録しようと思っても、スリットが入っていることで透けていたり、印画紙のパール系の光沢が乱反射しており、角度によって全く異なる質感が浮かび上がる。全体像の記録が不可能な作品であることも効果的である。さらに、記録だけではなく、物理的な切り込みがあるため複製も不可能なのだ。

 

色と質感を結びつける方法はまだたくさんあると思うが、澄さんの表現は、一つの答えとなっているだろう。そして、手で感じる質感ではなく、網膜でしか感じることできない質感ということが新鮮である。まさに記録には映らないので、生で見る機会があれば是非ご覧頂きたい。

 

参考文献

 

青の歴史

青の歴史

 

 

 

ヨーロッパの色彩

ヨーロッパの色彩

 

 

 

フランスの色景 -写真と色彩を巡る旅

フランスの色景 -写真と色彩を巡る旅