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渡邊 耕一展「Moving Plants」1/13~@ 資生堂ギャラリー

 

Moving Plants

Moving Plants

 

 

以前、ご紹介した渡邊耕一さんの作品で、大航海時代に逆輸入された日本産のイタドリが、外来種として世界を席巻している風景を追いかけた、「Moving Plants」のシリーズの展覧会が、資生堂ギャラリーで開催されます。

また、初日1月13日(土)には、関連企画として、長谷川 新(インディペンデント・キュレーター)さんとの対談、 3月3日(土)には、山内 朋樹(京都教育大学美術科講師、庭師)さんとの対談も開催されます。渡邊耕一さんの10年に及ぶイタドリの追跡が別の角度から光が当てられることでしょう。是非ご観覧ください。

 

shadowtimes編集部

 

Moving Plants 渡邊 耕一展
会期:2018年1月13日(土)~3月25日(日)

主催: 株式会社 資生堂主催: 株式会社 資生堂協賛: スガアート協力: The Third Gallery Aya、有限会社フォトグラファーズ・ラボラトリー、株式会社カシマ

会期: 2018年1月13日(土)~3月25日(日)会
場: 資生堂ギャラリー
〒104-0061東京都中央区銀座8-8-3 東京銀座資生堂ビル地下1階Tel:03-3572-3901 Fax:03-3572-3951平日 11:00~19:00 日曜・祝日 11:00~18:00毎週月曜休(月曜日が祝日にあたる場合も休館)入場無料

 

関連企画


①対談:渡邊 耕一x長谷川 新(インディペンデント・キュレーター)日時: 1月13日(土)14:00〜16:00
会場: ワードホール(東京都中央区銀座8-8-3 東京銀座資生堂ビル9階)
定員: 60名 参加費無料(事前申込先着順)

②対談:渡邊 耕一x山内 朋樹(京都教育大学美術科講師、庭師)
日時: 3月3日(土)14:00〜16:00
会場: ワードホール(東京都中央区銀座8-8-3 東京銀座資生堂ビル9階)定員: 60名 参加費無料(事前申込先着順)

 

資生堂ギャラリーでは、2018年1月13日(土)から3月25日(日)まで、渡邊 耕一の個展「Moving Plants」を開催します。渡邊は、10年以上の歳月をかけ「イタドリ」という雑草の姿を写真に撮り続けています。「スカンポ」とも呼ばれるこの植物は、日本各地に生息し、古来より薬草あるいは食材としても知られています。しかし、約200年前に、当時長崎に滞在したシーボルトによって園芸用のアイテムとして日本からヨーロッパに持ち出されたことをきっかけに、その強い生命力から世界各地に広まり、今日ではその土地の生態系を変えてしまうほど繁殖していることはあまり知られていません。

渡邊は、北海道の風景を撮影する中で「イタドリ」に偶然に出会って以来、この雑草の生態のあり様を具にリサーチし、自身の眼で確かめる旅を続けています。古今東西の植物の文献に当たりながら、現地の植物学者とも連絡を取り合い、これまでイギリス、オランダ、ポーランド、アメリカ合衆国などの藪の中へと分け入ってきました。本展では、渡邊の「Moving Plants」シリーズから18点の写真作品、2点の映像作品を中心に展示します。渡邊がこのプロジェクトを通じて捉えた「イタドリ」の姿は、強い侵略性のある植物でありながらも、自然の有機的な美しさを湛えた底知れぬ生命力を感じさせます。

今回の展示では、大型カメラによる写真作品の他に、世界各地の「イタドリ」が生息する藪に分け入って撮影したドキュメントフィルムや渡邊がリサーチに用いた貴重な資料も展示します。本展は、渡邊が「イタドリ」を追うプロジェクトの全体像を初めて示すとともに、大きく引き伸ばされた「イタドリ」のプリント作品は、人の丈ほど成長した植物がもたらす迫力ある臨場感を展覧会場全体に響かせることでしょう。


資生堂の社名は、中国の古典『易経』の一節「至哉坤元 万物資生(大地の徳はなんとすばらしいのだろうか すべてのものはここから生まれる)」に由来しており、自然がもつ生命力を称えるものであります。近年は、この自然がもつ生命力に向けられた関心がグローバルに高まりを見せており、アートの表現にも人と自然との関わりや自然に対する感性を表明する作品が見受けられるようになりました。

日本からはじまって人を介して園芸用のアイテムとして世界に流通するようになり、植物自体の強い生命力によってダイナミックに世界中に広がった「イタドリ」は、あたかも今日の人とモノと情報が行き交うグローバル・ネットワークを予見するような、稀有な物語の主人公と言えましょう。渡邊が捉えた植物と人とが絡み合う時空を超えた軌跡を、ぜひご高覧下さい。

 Webサイトより。

次回の展覧会 | SHISEIDO GALLERY | 資生堂グループ企業情報サイト


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国際的な評価という経験「新しい泉のための錬金術―作ることと作らないこと」(2)三木学

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左からドリュン・チョン氏、小崎哲哉氏、ヤノベケンジ氏

ULTRA GLOBAL AWARD 2017 Exhibition 12月5日(火)より | 京都造形芸術大学ULTRA FACTORY

 

ULTRA GLOBAL AWARD 2017 Exhibition「新しい泉のための錬金術―作ることと作らないこと」展では、先日、M+の副館長兼チーフ・キュレーターのドリュン・チョンさんと、小崎哲哉さんによる講評に加え、ドリュンさんによる最優秀賞の審査が行われたので前回に追加して報告しておきたい。ドリュンさんと小崎さんによる講評は非常におだやかながら、鋭い指摘が多数なされ、出品作家も大いに勉強になったのではないかと思う。学生や卒業間もないうちからこのような機会をもたせてくれるのは、贅沢というほかない。

 

また、最優秀賞を、国際的なキュレーターが単独で選ぶということは、非常に大胆でユニークな試みであり、先日の公開講評会のメンバーが、遠藤水城氏以外は、京都造形芸術大学で教鞭をとっており、作家の背景を知っていることから考えると、全くの外部者であるドリュンさんには人間関係や忖度が働かず、潔いものだったといえるだろう。後に述べるが、最優秀賞は関係者にとっても意外なものであったが、それが逆に国際シーンにおいてもリアリティのある出来事ともいえ、予定調和的ではなく個人的にはよかったと思う。

やはりある程度、内部事情がわかっていたら、ポジショントークになりかねないし、教え子の代理戦争のようになってはつまらない。美大の欠点は先生に似た作風で、先生より劣った作品を評価してしまう、無意識的な評価軸と縮小再生産の構造であり、そこから逃れるためには、全く関係のない第三者を持ってきた方がよく、ドリュンさんは国際的な視点と経験を併せ持つという意味で、最適な人材であったといえよう。

 

特にドリュンさんの指摘の中で、前回の講評会にも出なかった鋭い意見を下記に列記しておく。

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桑原ひな乃のプレゼンテーション。

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錨には溶接した真新しい鉄の跡が見える。

 

桑原ひな乃の作品《Anchor - 記憶の痕跡》 は、巨大な錨(いかり)を反転させて天井にぶら下げ、床面に鏡面を引いて、波底に沈んだ錨のように見せるインスタレーションであるが、錨に銀色の溶接跡がところどころに見える。そのことについて、意図的かどうか質問がなされた。

答えは、意図的ではないが、巨大な錨を運搬するのに、切断する必要があり、大学に運んでから溶接をして原状回復した後につりあげたとのことだった。ドリュンさんは、もしそれが意図的であるなら、やるなと思ったと言っていた。

個人的にも溶接跡が意図的であるなら、まさに切断された記憶を継いだと言えただろうし、産業遺産となったレディ・メイドとしての錨を切断し、溶接することで新たな価値を加えたということも言えただろうと思った。

陶磁器の世界でも、金継ぎなどをすれば割れた後にでも価値が出ることがある。それは西洋の陶磁器にはないことであり、小崎さんの指摘するように、利休(以降の茶道具)とデュシャンとの共通性を見出したと言えたかもしれない。デュシャンが移動中に割れた『大ガラス』を亀裂が残った状態で修復した行為も「金継ぎ」的と言えるし、本阿弥光悦の金継ぎや形に偶然性を活かした織部焼も現代アート的な解釈もできるだろう。

今後、自分の個人史とはだけではなく、近大遺産の切断と溶接というのを一つの手法として取り組めば面白い成果が出るかもしれない。

 

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梶原瑞生のプレゼンテーション。小屋の中で流されるアニメーションには、オリジナルの言語によるナレーションがついている。

 

梶原瑞生の作品《メデュホドン高原から》では、アニメーションの字幕に、自身が考えた言語による聞き取り不可能なナレーションがついているが、そこにルールがあり、言語として成立しているのかという質問がなされた。ある程度ルールはあるが言語としては成立していないという回答であったが、これがエスペラント語のような近代的な創造言語や、象形文字も含めて自身が発案した言語であれば面白い展開になっただろう。
彼女のリサーチテーブルに、トンパ文字に似たオリジナルの象形文字が、アイディアスケッチとして描かれていたので、もう少し言語の起源を考察すれば面白くなると思えた。

言語自体が、世界の認識を司り、「言語が思考を決定付ける」(言語的相対論の提唱者のウォーフは「言語は認識に影響を与える思考の習性を提供する」としている)とする言語学の流れもあり、認識や価値にかなりの影響を与えることは間違いないので、思考の「創造」にまで視野に入れたデュシャンの探求の延長線上にあるものと言えただろう。

また、ユングの元型論に影響を受けたと言っていたが、キリコ風の人物や西洋風のお城(あまり遠近法はゆがんでいないが…)と、インド風の意匠といったイメージは、ややステレオタイプのイメージなので、自分のイメージソースを洗い出す作業を一度行ってもいいだろう。

 

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坪本知恵のプレゼンテーション。高さが均一で幅が広狭あり、バーコードのように見える。

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キャンバスがコードとすれば、拡大したら(近寄れば)文字が見えるというようにも読み取れる。

 

坪本知恵の作品《種》は、講評室でインテリジェンスがある、と指摘されていたものの、原風景としていた安藤正楽の石碑のエピソードと、作品との関連があまり見出されなかったことと、まだまだコンセプトが弱かったので選ばれることはなかった。

しかし、個人的にはバーコードのようにも見える大小の幅のあるキャンバス全体が、実際にバーコードとしても読み取り可能で、ステンシルでプリントされている滝口修造の書籍のコードになっていればかなり面白かったのではないかと思った。バーコードのような機械ではないと読み取れないコードに潜像している文字を引き出すというアイディアならば、社会的なコードに対する考察、コードに対する自己言及のような文脈でも読み取れただろう。是非、次回検討していただきたい。

安藤正楽の石碑のエピソードがあまりに興味深いので、作品よりもひっぱられたことは本人としても本意ではなかったかもしれないが、そのような素材を見つけることもなかなかできないので、今後、別の作品として展開することを期待したい。

 

私事であるが、安藤正楽が愛媛県旧宇摩郡土居町の出身で、土居町の日露戦争出征者の依頼を受けて石碑を頼んだのだが、その中に義理の祖父の名前が刻まれていることを発見した。確かに、義理の祖父は、日露戦争に出征しており、通信兵として従軍したことを聞いたことがあった。ただ、愛媛県は『坂の上の雲』で有名な、秋山真之、秋山好古兄弟などを輩出しており、すっかり日露戦争に対して誇りに思っていると思い込んでおり、安藤正楽という当時では珍しい、非戦・反戦の人権主義者に石碑を依頼していたことは、個人史的な驚きであった。また、リサーチベースのアートのもたらす個人への影響ということを図らずも体験することになった。

 

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内田恵利の映像インスタレーション(一部)。エレベータの入り口に座り、自身の体で止まり、開いて閉じることが繰り返される。4面にプロジェクションされる短い映像クリップには、このようなある程度の身体的「痛み」を伴うものもあり、60年代の前衛的パフォーマンスやヴィトア・コンチ、ブルースナウマンなどの現象学的なビデオ・インスタレーションが想起させられるが、構図や衣裳などを含めて体系化できる余地を残していた。

 

さて、最終優秀賞は、内田恵利の《多分いつかおそらくしかしながら》と橋本優香子の《別の言葉で言い直す(うた)》 が競った上に、内田 恵利が選ばれることになった。この判断については、出品作家や講評者からも驚きをもって迎えられた。内田の選考理由は、「シンプルであり、様々な解釈が可能であること」、「自閉的な反復行為であるが、現代人のどこにも行けない孤独を表象しているようにもとれること」、「日本人で似たタイプが思いつかないこと」、「直観的に制作しており、今後の伸びしろを感じること」などであった。

もちろんどの作家もまだ若く未熟なところがあったが、自分が企画した展覧会に入れるとしたら、ということで内田恵利が選ばれた。

 

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橋本優香子のインスタレーション 。3人の台湾人にインタビューを行い、彼らから出てきた詩や歌などを、半透明な布に縫い込んだ。

 

橋本優香子の場合は、非常に真摯に制作しているが、アジアの作家でも(旧植民地などを含む)アイディンティティをテーマにしている作家は多く、その中で突出した作品ではないこと、調査した内容を表象として表せていないこと、などが差が出たポイントであった。

個人的には、3人の台湾人から印象的な詩や歌を引き出して、縫い込むのは面白いと思ったが、発話されることと記述されることが、文字を縫うという行為に上手くつながっていればよかっただろうと思う。また、インタビュー映像で、抽出された詩や歌が定期的に発話されたり、3つの布や糸を重ねたりつなげたりすることで、3つの世代の意識の共通点や違いなどを表していてもよかったのではないかと思った。どちらにせよ、布に文字を縫い込むという表現方法には、まだまだ探求の余地はあるだろう。

 

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最優秀賞を受賞した内田恵利(中央)

 

ドリュンさんはアートにおいては、表象が重要であることを審査発表後も、出品作家に伝えており、コンセプト倒れであったり、表象に至っていない表現については、評価が下がることをクリアにされていた。その観点から言えば、今回出品作家は丹念に制作に向き合い、調査もしっかり行ってきたが、消化不良のケースも見られた。制作時間の制限もあり、未消化な作家もいたと思うが、最終的にどのようなフォームに落とし込むかは共通した課題だろう。

 

前回の記事では、講評会の厳しい指摘を反映して、少し辛めの評価をしていたが、国際的なキュレーターである片岡真実氏による選抜が行われているので、そもそもみんな「何か」を捉えているのは確かである。

その鉱脈を様々な視点から発掘し、延ばしていければ、大きな飛躍ができるに違いない。それがデュシャン以降のパラダイム変換を作る錬金術になれば言うことはないだろう。是非それぞれの今後の活躍を期待したい。

 

 

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現代アートのゲーム・チェンジャーは生まれるか?「新しい泉のための錬金術ー作ることと作らないこと」三木学

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ULTRA GLOBAL AWARD 2017 Exhibition「新しい泉のための錬金術―作ることと作らないこと」
京都造形芸術大学ギャラリー・オーブ
会期:2017年12月5日(火)〜12月19日(火)
時間:10:00〜18:00
会期中無休
入場料:無料

 

今年は、マルセル・デュシャンが『泉』を制作してから100年になる。それに関連して、デュシャンをテーマにした展覧会が各地で開催されている。実質上、現代アートは、デュシャンが始めたといってよいだろう。デュシャンの本格的な評価が戦後とはいえ、デュシャンはそれ以前のアーティストの態度とはまったく異なる。デュシャンは、狭義の作ることを止め、観念的な操作でものの見え方を変えてしまうことに成功した。今日ではコンセプチュアルであることは、現代アートの前提条件になっている。デュシャンは、今風に言えば、アート界のゲーム・チェンジャーであり、パラダイム変換をもたらしたのだ。

 

京都造形芸術大学ウルトラファクトリーが、例年開催しているアート・コンペティション「ウルトラ・アワード」も、今年は「ウルトラ・グローバル・アワード」にバージョンアップして、森美術館チーフキュレーターの片岡真実氏が、キュレーション及び制作指導を行うという新体制の下、「新しい泉のための錬金術ー作ることと作らないこと」をテーマに、展覧会が開催されている。若手作家たちが、現代アートにおける作ることと作らないことの意味を改めて考え、デュシャンがパラダイム変換して以降、100年の現代アートの歴史を振り返りつつ、今日における『泉』やそれを生み出す錬金術(制作手法)を試みるという趣向になっている。

 

キュレーターは、アーティストをオーガナイズするという意味では展覧会の共犯者であり、同時にセレクトするという意味では評価者でもある。したがって、キュレーターが制作指導を行うというのは一見、合理的でもあるが、キュレーターの枠内でアーティストを判断し、抑えてしまうという面もあり難しい点もある。とはいえ、実質現在のアートワールドでは、キュレーターとの共同作業が必須であり、彼・彼女らにプロポーザルを出して、制作が始まることが多いことを考えれば、既存作品ではなく、テーマに応じた提案を行い、そこから制作指導をしながら作り上げる、ウルトラ・グローバル・アワードは、現在の美術大学の教育の中では、かなり今日的で実践的であるといってよい。

 

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左から片岡真実、後藤繁雄、浅田彰、やなぎみわ、遠藤水城、ヤノベケンジ

 

例年、浅田彰、遠藤水城、後藤繁雄、やなぎみわ、椿昇、名和晃平などの、第一線で活躍する批評家・編集者・キュレーター・アーティストといった違う役割を持つアートワールドのプレイヤーによって講評が行われ、最優秀賞が選ばれていたが、今年は、M+副館長兼チーフキュレーターのドリュン・チェン氏が、単独で最優秀賞を選ぶことになっている。遠藤水城を除いて、京都造形芸術大学で教えている教員であることを考えれば、出品作家の作風や背景を知っており文脈を補完してしまうので、最優秀賞を切り分けるというのはよいアイディアであるといえるだろう。

 

今年は、そういう経緯もあり、展覧会初日に、浅田彰、遠藤水城、後藤繁雄、やなぎみわの講評会が開催された。賞とは関係なくなったとはいえ、国内外で実践経験があり、幅広い視野を持つ彼らに講評されることは、出品作家にとって貴重な経験であることは変わりない。時に辛辣とも思える言葉が飛び交うが、授業料を払っている学生たちに忖度なし、ガチンコで取り組んでいることの証明でもあり、オーディエンスにとっても大いに役に立ち、一つのエンターテイメントのようになっていたのが印象的であった。また、昨年までとは違う展示の特徴は、片岡氏の制作指導によって、制作前にリサーチが行われており、作品の思考過程がわかるように、リサーチ・テーブルが置かれてることである。それが作品に厚みをもたらしていることもあるし、作品との関連が唐突で混乱をもたらしている展示もあり、サーベイのアウトプットに対するアーティストの自覚度を示す指標になっていた。

 

京都造形芸術大学の学生・院生・卒業生70名の応募の中で選ばれた10名がどのような作品であったのか少し説明していこう。

 

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小野 由理子
タイトル:《お供え》
制作年:2017
素材:綿布、糸

小野由里子は、もともとアパレル関係で勤めた後に、自分のブランドの展開とともに、現代アートの作品制作にも取り組んでおり、ファッション、衣服の形態を保持しつつ、そこにメッセージを込めるという作風になっている。

今回は、縫うことの根源を問い、そこにある原始的でシャーマニックな要素を調べた上で、戦前の千人針にいきついた。さらに、パンテオン神殿と女性の衣服の象徴であるスカートとの形状的共通点を見出し、ドーム型の天井となるような大きなスカートを作り、そこに様々な神獣などの意匠を、赤い糸で縫い付けて宗教的空間を作り出した。

しかしながら、千人針は戦意高揚に使われ、国家的な動員の要素にもなった過去があり、危うい宗教性・民俗性を無批判に展開していることへの懸念が、講評者から指摘された。そもそも千人針は、日露戦争では非科学的で忌避された行為であり、そこには弾に当たらない、あるいは徴兵されないという、非戦的な要素があったものが、無謀な太平洋戦争になって、むしろ積極的に動員の手段になったことは興味深いので、デュシャンとの関係を考えれば、そのような竹槍と並ぶ手仕事の持つ危うさや滑稽さこそを取り上げるべきだったのかもしれない。例えば、手縫いに見せて、すべて工業製品を貼り付けただけで、そこに感じる宗教性は錯覚であったというような…。

あるいは、スカートの中に入ることで、デュシャンの『遺作(『(1)落下する水、(2)照明用ガス、が与えられたとせよ』のような覗き見的な構造を作って、視線の問題を扱ってもよかったかもしれない。

白い布地に赤い糸の組み合わせは、千人針のように小さく凝縮していると見た目にも呪術性を感じるのかもしれないが、ギャラリーの大きさと比較すればスカートの大きさも中途半端で、図柄も小さく間が抜けているのでスケールメリットが感じられない。本来はスカートが大きくなっただけで、縮尺の違いで感覚がズレる効果があるはずである。

あるいは、色を反転させ、スカートを真っ赤にして、白い糸で縫い付けた方が、インパクトはあったかもしれない。単純なことであるが、衣装という身体性から離れた巨大さを、どのようにコントロールするかということから考えていみた方がいいだろう。

また、小野はスカートに人の動きを描き、ゾートロープに展開できそうな作品を作っていたので、まずは『泉』以前の錯視的なデュシャンの試みを学んでみたらどうだろうか?ジェンダーと宗教性を扱うのには、まだまだ手に余るという気がした。

 

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長尾 鴻平
タイトル:《untitled (monolith)》
制作年:2017
素材:顔料、岩絵具、砂、膠、綿布、パネル

長尾鴻平は、星座をモチーフに、巨大なキャンバスに日本画の光輝性のある白い顔料を全面的に塗った後、ある星座を点と線で描いた。

日本画の鉱物的な顔料の凹凸、時間がたちまだら模様になったため抑揚ができた平面、巨大なキャンバスは十分迫力があって面白いのだが、星座を看板のサインのように単純な丸と線を引いているため、そちらの方に知覚と認知が引っ張られて、地がペラペラの平面にように見えてしまっているのが残念であった。

天体と洞窟などの関係などリサーチしていたのだが、なぜ白なのか?星座を連想させるのに黒は単純すぎるにせよ、白の必然性はいまいちわからない。また、そもそも星と星を恣意的に結んで星座は作られているが、結ばれた星の距離は何光年も離れていて、その膨大な奥行きとは無関係に、認知が生み出す図形の平面性が面白いとは思うし、作家本人もそのように考えていると言っていただけに、上塗りして単純化した星座は蛇足に思えた。もう一枚レイヤーを重ねるにせよ、存在しない補助線を知覚的に見せるようなやり方があっただろう。

また、星が恒星の光であり、光源であることとは逆に、絵画が反射光で見えており、ザラザラとした表面をもっていることを考えれば、洞窟のように触覚的なアプローチへの言及があってもよかったかもしれない。

 

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石黒健一
タイトル:《TAUTOLOGY》
制作年:2017
素材:単結晶シリコン、黒曜石、ほか

 

石黒健一は、指を事故で切断しながら、創造的なアプローチで新たな演奏法を確立した、ブラック・サバスのギタリストのトニー・アイオミと、2000年代にアマチュアの考古学者として活躍し、「ゴットハンド」と呼ばれ、次々と歴史的な石器時代の遺跡を発掘するも、自分が埋めた偽物であることがスクープされ自ら指を切り落とした藤村新一に、欠損した指と、偽物の中に秘められた創造性を見出し、指が切断された手の像を黒曜石で作った。

黒曜石は矢じりやナイフなどに使われた代表的な石器の素材であり、日本でも後期旧石器時代から使われている。古代のナイフを見つけるために嘘をつき、最終的に自分の指を切ることになった藤村のことを思えば興味深い。捏造にも創造性があるのは確かであるし、彼が歴史に介入して偽史を作ったことを考えれば、作る歴史を転覆したデュシャンへの言及とも言えるかもかもしれない。

また、それと対比させて、タスマニアで発見された人類最初期の礫器(打製石器)オルドヴァイ石器をモチーフに、現在社会で広く使われているシリコンを使って、偽の石器を作り対比させた。

展示方法が、インスタレーションのようになっており、暗い部屋の中で発掘現場のような空間を構成し、割れたモニターを台座のようにして、2つの作品を左右両極に離して置いているのだが、少し過剰な演出であったかもしれない。講評者からも非常に興味深いが、要素が多すぎると指摘されていた。

もう少し博物館的な方法で、作品自体を巧妙な偽史の一環として展示するなど、マルセル・ブロータースのようなアプローチでもよかっただろう。とはいえ、真実と嘘の境界、偽物の創造性は非常に今日的であり、可能性を感じる作品であった。

 

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佐貫 絢郁
タイトル:《 35.0367416
135.79265140000007》
制作年:2017
素材:壁面、布

 

佐貫絢郁は、壊される予定の学舎の壁に描かれてあった、ドラゴンボールのキャラクターの落書きを下絵に彫り、巨大な版画に仕立て上げた。さらには、下絵である絵を、四角形に切り取り、壁ごと持ち出してインタレーションにしている(四角形といっても壁を抜く際に、切り取ることが難しくドリルのような円形になる器具を使ったため、パンチでくりぬいたようになっている)。

版画となった落書きは、転写が繰り返され、そこにドラゴンボールのキャラクーを見出すのが難しいくらいになっているのだが、落書きを版画にしたり、壁をぶち抜くプロセスを撮影したメイキングムービーは魅力的な映像になっており、講評者の大勢もそのように感じたようであった。

とはいえ、都市や建築への介入として、建築に穴や亀裂を入れたゴードン・マッタ=クラークやグラフティを使って、都市や美術館に介入しながら社会的・政治的風刺を行うバンクシーとは違い、そこに空間、政治、美術制度への介入という志向性は見られず、似て非なるものになっている。取り壊し予定の美術大学の壁以上の意味を見いだせないのが残念なところである。

今後、佐貫が手法以外にどのような社会的な関心を持つかによって、本作の意味合いも変わってくるだろう。

 

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桑原ひな乃
タイトル:《Anchor - 記憶の痕跡》
制作年:2017
素材:鉄、アクリルミラー

 

桑原ひな乃は、自分のルーツである漁村に打ち捨てられていた、巨大な錨(いかり)を吊り上げ、床面に鏡をはって、鏡の中を見るとあたかも水底に、錨が降りているようなインスタレーションに仕立て上げた。

デュシャンが使用した工業製品のレディ・メイドの規模の大きなもの、という趣であり、便器や自転車の車輪、ボトルラックのように、ギャラリーで展示台に置かれると彫刻的アウラを帯びてくる。さらに、天井に反転させてつり上げ、床に鏡を置くことで、再反転させて鏡像を正しい天地にしているわけで、手法も凝っているといえるし、スペクタキュラーな演出としては成功しているだろう。

とはいえ、リサーチの結果、水産業を営み繁栄していた桑原家のルーツを知り、家系的なアンカーのような位置づけにもなっていたこともあり、レディ・メイドというよりは、「私の家系・家業の思い出」というような意味合いが強くでていた。

デュシャンはレディ・メイドの私的記憶や美的価値も否定しているので、錨自体の美的価値や存在感、家系・家業の思い出の表出が、作品の動機であるならば、退行しているといえなくもない。

作家自体は、個人的な記憶や美的価値だけではなく、産業転換の末に無価値になった物の芸術的転用を考えているようだが、近代産業遺産は総じて、日常的な存在でなくなった結果、歴史的価値と芸術的価値に転換されるものなので、珍しい行為ではない。3Dスキャニングで記録し、発泡スチロールで再現して、まったく軽いものにしてしまうなど、記憶の重みを無化するくらいの工夫があってもよかっただろう。

 

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梶原 瑞生
タイトル:《メデュホドン高原から》
制作年:2017
素材:アニメーション、木材

 

梶原瑞生は、移動から定住の変化というテーマを、小さな木造の家と、内部に投影する映像によって表現していた。会期中には、観客に小さな家に入ってもらい、アニメーションの上映時間中、作家が引っ張って移動させるパフォーマンスが行われるという。絵心があり、ヘタウマなアニメーションもよくできているが、残念ながら、関心が私的な領域に留まっており、あまり社会性が感じられない。

講評者にも、道端で紙芝居のような形態で見せるのなら問題はないが、近代以降の展覧会という開かれた場で見せるのは難があると指摘されていた。

付け加えるなら、かつての紙芝居のように路上や公園で見せるならば、美術館やギャラリーのような鑑賞空間ではないためもっと公的であるし、さらに子供たちを惹きつける物語やエンターテインメントが必要であり、近代以前の見世物小屋としても成立させるのは難しいだろう。

このような私的な領域にとどまって表現を続けるタイプは、まずは展覧会という私的な発露がある程度許される場所ではなく、エンターテインメントの場で受けるかどうかやってみた方がよいと思う。そうすれば初めて、自分以外の他者の眼差しの厳しさに出会うはずである。

それができた上で、束芋のような、アートとして、社会批評をともなったアニメーションを作るか、エンターテイメントとして展開するか考えればよいだろう。

 

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山本 昂二朗
タイトル:《OLYMPUS21,230》
制作年:2017
素材:木材、巻尺

 

山本昂二朗は、太陽系で一番高い山である約2万メートルの火星のオリンポス山の長さを身体化するために、2万メートル巻尺を使い、約8mの木組みのタワーに巻きつけた。

スケールアウトした大きさを、生身の身体を使って、バカバカしく表現するというのがそもそも山本の関心のようだが、一見、無造作に作られた木組みに巻かれた巻尺は、黄色と白、文字がある種のリズムを形成しており、模様になっているところが面白い効果を出していた。

デュシャンのメートル原器をモチーフにした『3つの停止原理』を援用しているとも思えるし、それまでに身体の延長としての縮尺ではなく、「真空中で1秒の 299792458 分の1の時間に光が進む行程の長さ」という物理的な理念で作られたメートルや、到達不可能な火星のオリンポス山という半ば空想的な存在を、自身の身体で介入するというのは面白い試みだと思えた。

ただ、表現の方法について、あまり深く意識化できておらず、それぞれの素材にもう少し意味付けをもたせられるようになった方がいいだろう。また、2万メートルという長さも、垂直であれば高いが、水平では20キロ程度のもので、歩くこともできる。

最近ではGPSで絵を描くことできるので、リチャード・ロングのように歩いて、世界各地で2万メートル尺を作るということもできるだろう。考えていることが単純で一発芸的なものなので、現代アートではなくてもやってしまう人もいるだろうから、アートとしての文脈をいかにつけていくかということを考えた方がいいと思えた。

 

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橋本優香子
タイトル:《別の言葉で言い直す(うた)》
制作年:2017
素材:ビデオ(3面)、台湾の糸、布

 

橋本優香子は、台湾人が持っている日本語・日本に対する距離感を示すため、日本語を使うこのできる世代の異なる3人の台湾人のインタビューを行い、それぞれの意識の違いを明らかにした映像作品を制作した。また、彼らの違いを表す言葉を抽出し、刺繍に縫って展示した。刺繍に縫われた文字は、壁に写った影で読むことが意図されているが、判読するのは難しい。

ただ、3人の選び方は恣意的にすぎないし、最終的なアウトプットも、なんとなく自分がしてきた手わざに回収されており、調査を経た上での言語・圏の持つ、想像の共同体の強さやその綻びのような、断絶がクリアに見えないのがもどかしい。

インタビューを書き起こした取材記録や調査は非常に丁寧に行われており、生の素材の方が魅力的だと講評者には指摘されていた。そして、誠実に対象と取り組んでいることにはある程度の評価を受けていた。しかし、誠実さがつまらなさになってしまっては身もふたもないし、素材を活かした料理ができない状態では意味がない。

リサーチベースの作品の場合、対象が魅力的すぎると、あれもこれもと、からまった状態で、浮かんでこれないようなところがある。作家の資質が真面目だからこそ、もう一度、関心や明確に表したい亀裂は何か、対象から離れて考えてもよいように思った。その意味では、読めない刺繍は、作家の現状を表しているようにも思える。

アーティストは勉強せず、もっとめちゃくちゃでいい、というような講評者の発言もあったが、生真面目でユーモアがなくなるようなタイプにとってはその通りだろう。アーティストのサーベイに期待しているのは、普通の研究では取り上げられない、思わぬ角度による発見であり、学術的な精度ではない。リサーチベースで資料展示が氾濫する昨今のアートワールドであるが、学術論文としてもアートとしても成立しないような自由研究にならないように気を付けた方がいいだろう。

 

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内田 恵利
タイトル:《多分いつかおそらくしかしながら》
制作年:2017
素材:ビデオ

 

内田恵利は、4台のプロジェクターにそれぞれ、自分がパフォーマーとなって、動きはあるが進まない反復行為を映し出して、不条理な状況を映し出している。いかにも思わせぶりで、ベケット的な不条理劇や、ヴィト・アコンチのような、パフォーマンスを連想しないでもないが、作家自身はまったくそのような背景を持たない。

政治性、身体性の切実さが感じられない、安全圏の中で個人的な妄想を投影したくだらない行為、というようにしか読み取れず、しかもそれが外れてもいないところが悲しいところであった。

昨今YouTuberならもっと受けることは考えるし、不条理を見せるためには、それ以上に深い思索と、身体的訓練や冒険があって初めてユーモアになるし、アートにもなる。ネタのチップス的な方法はそろそろ卒業し、反復するのをやめて、前に進む機会にした方がいいだろう。

その上で少しフォローすると、先行のアーティストのパフォーマンスと似ているところはいろいろ見出せるのと、なんとなく映像のフレームに作家の志向性、美学がうかがえるところがあり、自身でもう少し調べて、通底するテーマを見出せば、次にやるべきことが見えてくるかもしれない。

 

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削り取られた安藤正楽の碑文

 

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石碑と隣に置かれた復刻された碑文
 

 

坪本 知恵
タイトル:《種》
制作年:2017
素材:油彩、木材

 

坪本恵理は、愛媛県四国中央市(旧宇摩郡)土居町の出身で、近所に建てられている日露戦争記念碑の文字がごっそり削り取られ、文字部分だけが隣に復刻された奇妙な石碑を見て育った。それは土居町出身の明治の人類学者、安藤正楽の碑文を元にしており、日露戦争後に出征した町民に請われて書いた碑文である。反戦・非戦の人権主義者であった正楽は、「愛国忠君」の思想こそが誰もがよくないと考える戦争に向かわせるものとして批判する内容を込めために削り取られた上に、本人も投獄されるきっかけとなった。復刻されたのは、平成5年のことであり、ほんの20数年前までは何が刻まれているかわからなかった。

作品は、安藤正楽の碑文の一連の経緯をヒントにしつつ、デュシャンとも交流のあった、日本のシュルレアリスト、詩人の瀧口修造が夢について書いた文章を、プリントしてステンシルにし、塗りこめている。灰色に黒字で刻印されおり、石碑のような重厚さが感じられるし、奇麗な仕上げになっている。ただ、文章はところどころ黒でつぶれ、ギリギリ読めるという程度であるが、内容にほとんど意味を求めていないため、まさに意味をなさないものになっている。

安藤正楽の石碑の持つ政治性・社会性・歴史性、あるいは滝口修造の持つ政治性・社会性・歴史性が骨抜きにされ、言葉遊びのように使われているのが残念であった。ダダのような言葉遊びすら、戦争というもっとも不条理な出来事を反映したものだということを考えた方がいいかもしれない。ステンシルにするくらいなら、もっと素直に石碑を版にして、再掲示した方が面白いと思ったが、政治的問題に関心があるわけではないようで、坪本に限らず日本の若いアーティストに見られる、政治回避の志向は安藤正楽が生きた時代への回帰を思わせられる根の深い問題に感じた。

 

さて、全体の感想を言えば、キュレーターの指導によって、関心やサーベイのレベルが引き上げられ、ウルトラファクトリーのサポートによって見せ方の完成度が飛躍的に上がっているがゆえに、作家のコアな関心や技術の強度が逆説的に明らかになっていたといえる。表現技術もさることながら、昨今のアートワールドでは、アートヒストリーのみならず、社会や政治、地域の問題を避けて通ることはできないため、それぞれがもっと向き合わなければこの上には脱皮できないと思えた。

本展のように、背伸びし、宙づりになった状態で、さらに根をはっていけるか、あるいは崩れてしまうかは、作家次第といったところだろう。結局のところ自力のある作家は残るということだが、一度このようなフレームアップされた展覧会を体験すると、自ずと自分のやらなければならないことが見えてくるだろう。自分探しを卒業し、グローバルなアートワールドを見据えるのには絶好の機会であり、この中から「新しい泉」を生み出すゲーム・チェンジャーが輩出されることを期待したい。