読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

shadowtimesβ

ビジュアルレビューマガジン

スポンサーリンク

文系・理系と第三の系-港千尋『芸術回帰論』三木学

書評

 

芸術回帰論 (平凡社新書)

芸術回帰論 (平凡社新書)

 

 

文科省が、国立大学に「法科大学院の見直し、教員養成系学部・大学院と人文社会科学系学部・大学院の廃止や社会的要請の高い分野への転換、グローバル化の推進などの要請」について通知したことが話題になっている。

 

いわゆる文系はお金にならないことばかりしているから、現状では税金を投入するに値しない。廃止するか、企業のニーズの高い内容に変えるように、という趣旨である。その代りに、お金になる理系に重点投資し、一方でより実践的な教育をする職業訓練の意味合いの強い大学を作ろうとしている。この方針には大学の人文社会学系の研究者には大いに反論があるだろう。ただし、この答えは、文系の価値、理系の価値を論じていても答えはでそうにない。

 

本書は、今日の文系・理系を巡る騒動を予言しているかのような内容である。第一章「芸術への回帰」から引用してみよう。

 

日本では高校二年生になると、ある選択を迫られる。
ー文系か理系か。
これが英語圏になると、エスかエーか、となる。サイエンスのSか、アーツのAか。フランスの高校生なら、SかESかLか、つまり科学(S)か社会科学(ES)か文学(L)か。細かな違いはさておき、世界中で似たような選択が行われているのである。

理系に進みたいか、文系に進みたいか。もちろん大学に進学するかどうかは、自分の問題なのだから、好きなように選べばよい、常識的にはそうだろう。だが、はたして十六歳や十七歳で世界を二分するような「選択」はできるものだろうか。そもそも世界は本当に「理系」と「文系」とに分かれているのだろうか。文系人間、理系人間などという言い方は喩えだとしても、仮にそれが人間の分類にまで及んだとして、それははたして「選択」なのだろうか。

 

なかでも文系・理系の分類は、現代文明をその根底において決めているものと言ってもいいだろう。C・スノーが、その名高い講演「二つの文化と科学革命」で明快に示したように、それは単に「分類」の問題ではなく、どちらの陣営もそれぞれ特有の強固な「文化」を作り上げ、そのあいだに深い溝を生じてしまうという、現代文明の問題そのものである。

 

文明の問題とは、自然科学の爆発的な発展によって可能になった高度な技術文明と、政治的・経済的な核心にも、この「溝」があるからにほかならない。2011年に日本が陥った深刻な効き、すなわち大震災と大津波、さらにそれに続く原発事故の放射能汚染の問題も、その核心にはこの文明的な問題があるだろう。自然災害と人災が分かちがたく一体となって日本を陥れたこの危機において、わたしたちは高度に専門化した科学技術の知識と、人間の政治的統治能力の乖離に絶望さえ抱いたのである。特に原発事故の直後は、マスメディアに登場する「専門家」と、わたしたち一般市民とのあいだにコミュニケーションが成立しないほどの大きな混乱が起きたのだった。

 

どうだろうか?我々は文系と理系という分類や、高度な専門性がもたらした機能不全を目の当たりしたばかりなのではないだろうか?本来は人間に文系も理系もない。文系の中に理系的な知も含まれるし、その逆も同じである。それよりも、高等教育の問題は専門性を競うことで蛸壺化し、社会から乖離してしまう矛盾である。

 

この枠組みを残した上で、文系と理系に優劣をつけると、さらに社会との乖離は大きくなるだろう。文系の知識は理系にとって必要ではない知識という捉え方をされればより問題は深刻になる。問題の核心は、知識を二分化する文系と理系という分類そのものであり、両者を統合したり横断したりする知識の不在だと考えた方がよい。

 

例えば、Gooleなどの検索で使われている自然言語処理は、言語学の発展がないと成長は止まってしまう。単純にお金になる技術としても、文系の知と理系の知は分かちがたく結びついている。また、ジョブズが大学を退学した後に、カリグラフィーの授業を聴講して、後のマッキントッシュの美しいフォントに採用したのも有名な話である。ジョブズがデザインやユーザーインタフェースに拘らなければ、UI革命とも言われるスマートフォンは登場してないだろう。

 

港もまた、文系・理系に起こるコミュニケーションの危機を超える可能性のあるものとして、芸術や美術などを意味する「美系」という第三の系を仮定する。アートがギリシア語で技術を意味するテクネーと、その訳語のラテン語であるアルスから来ており、古代において技術と芸術は同根であったことはよく指摘される。

 

港は、世界が分断化され、その総体を見る知を失ってる現在、手によって創造する芸術こそがそれを繋ぎなおす力があるのではないかと強調する。芸術がその最古にして最新の方法である、と。

 

我々は文系・理系の議論の俎上に乗った時点で、強固な枠組みに囲い込まれてしまっている。その二つの概念の呪縛を解かない限り、生産的な議論にはならないだろう。政治家や官僚、大学人という教育改革の当事者にはもう一度、我々自身を縛っている分類を見直してほしいと願っている。