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グローバリズムの罠と日本語の可能性「東京オリンピックとデザインの行方(5)」三木学

www.sankei.com

東京五輪エンブレムが発表されてから様々な騒動が起きて収まる気配がない。元々は、アートディレクターの佐野研二郎氏がデザインしたエンブレムについて、ベルギー在住のデザイナー、オリビエ・ドビ氏より当人がデザインしたリエージュ劇場のロゴデザインからの盗用を指摘されたことに端を発する。

 

佐野研二郎氏は、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会とともに記者会見を行い、エンブレムの設計思想を説明した上で、リエージュ劇場からのデザインの盗用を完全に否定した。

 

しかし、オリビエ・ドビ氏は記者会見に納得せず、使用差し止めの通告をIOC及びJOCに行った。IOC、組織委員会は通告を受け入れず、結局、オリビエ・ドビ氏はベルギーの裁判所に使用差し止めを求めて民事訴訟を行っている。

 

それだけに終わらず、インターネットを中心に、佐野研二郎氏が過去にアートディレクション、デザインを行った様々なロゴやイラストなどに対して、盗用を指摘する声が相次ぐことになった。もっとも顕著なのが、サントリー「オールフリー」の景品であるトートバッグのデザインで、それに関してはネット上の指摘通り、「トレース」という形で、佐野氏自身が盗用を認め、景品から一部デザインを取り下げた形になった。

 

しかし、それに留まらず、佐野氏がデザインした動物園、美術館などのロゴについて盗用が指摘され、各組織が調査するだけではなく、盗用元とされる米国人デザイナーなどから訴訟の検討が相次いでいる。

 

さて、この現象をどのように解釈すればいいのだろうか?以前、西洋圏にあるベルギーの地方都市と、東洋圏にある日本の首都、東京をイメージしたロゴやエンブレムが似てしまうのはモダンデザインの欠点であることを述べた。

 

ある意味、丸、三角、四角、アルファベットを構成要素にして、シンプルにしていけば、世界各国で似ているデザインが続出してもおかしくはない。実際、佐野氏が盗用と指摘されているデザインの中には、複数似ているデザインが指摘されているものもある。佐野氏に対するデザイナーなどの同業者の擁護論も、類似性の多発はモダンデザインそのものの性質によるものであって、佐野氏の資質だけの問題ではないとするところに核がある。

 

しかし、かつてここまでデザインの盗用疑惑が世界中を騒がすほど大々的になったことはあっただろうか?オリンピックという国際的イベントであるため、世界的に注目されるようになったことが大きいのは間違いない。しかし、その背景には、1990年代から急速に加速したコンピュータソフトによるデザインと、2000年代に世界を覆い尽くしたインターネット環境がある。その結果、デザインはかつてないほど量産されるようになり、同時に画像検索や画像共有サービスの普及によって相互に類似性を増していった。このような盗用疑惑が暴発するのは時間の問題であったといえるかもしれない。

 

そのきっかけが東京オリンピックだったということだが、そこにも必然性はある。日本は東洋圏では、モダンデザインの受容は早く、戦争で中断するものの、明治以降、西洋圏のデザインを吸収し続けてきた。アルファベットを使うことにも親しんできた時間は長い。しかしながら、今までは国内に向けたデザインが多く、ほんの一部のグローバル企業のロゴなどではない限り、世界的に比較されることはなかった。つまり、日本人向けに格好よく見せるためにアルファベットを使ってきたのが主だった。

 

しかし、今回の問題によって、国内でのデザインでも、海外から著作権侵害による訴訟が大量に出る可能性が明らかになってしまった。著作権は世界のほとんどが加盟しているベルヌ条約(文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約)により、登録せずに発表した時点で保護されることになっている。登録制ではないため、商標のように事前調査することはできない。日々発表されるデザインは膨大であるため、Google画像検索で類似画像を調査するといってもそこには限界があるだろう。

 

デザインを含めたクリエーションは、過去の歴史や同時代の優れたデザインから学ぶものなので、類似物は必然的に出てくる構造になっている。だからデザイナーによる、他の作品からの影響なしに、新しい作品を創ることは不可能である、という反論は一理ある。しかし、海外、特にアメリカで訴訟された場合、陪審員制度もあるため、敗訴するリスクも十分ありうるということを前提にこれからはデザインしなければならないことがはっきりしたのだ。盗用か盗用ではないか、ではなく、訴訟されるかされないか、が最大の問題になったのである(もちろん道義的な問題はある)。時代のフェーズが変わってしまったと捉えなければならない。

 

奇しくも、日本は西洋的なデザイン教育をいち早く取り入れ、血肉化していくことに邁進したがために、より世界のデザイナーたちと発想が極めて近くになってしまっている。ここから脱することが一番のリスク管理になるだろう。

 

例えば、日本語を使ったデザインならば、ほぼ類似デザインは国内に限定される。漢字だけなら中国を含めた漢字文化圏との類似が出てくるかもしれないが、平仮名、片仮名を入れるとどうだろうか?良くも悪くも、日本語を常用的に使っている地域は日本国内に限られる。日本国内ならば、訴訟のリスクは極めて少ないし、もし訴訟が起こったとしても、悪質でなければ和解するのはたやすいだろう。今回の東京五輪エンブレムのデザインも、日本語を元にしていたならば、訴訟は起きなかっただろう。

 

世界の人に意味が通じないではないか、という指摘もあるかもしれないが、現状のデザインでもTだけではなく、Lも使っているように見えることで問題が起きている。もし、北京オリンピックのエンブレムのように象形文字風なアレンジにしておけば、西洋圏のデザインとの類似を指摘されることはなかっただろう。そして、東洋のデザインということもすぐに理解されただろうと思う。

 

グローバリズムにおける戦略とは、世界各国の共通の認識の上で戦うことではない。その地域で限定的に共有されていたものを、世界に対して打ち出すことに他ならない。グローバリズムとは、結局、西洋思想やモダニズムの延長線上にあるものである。そこで大本の西洋圏の思想を背景にして勝つのは難しい。今、日本のデザイナーが見直さなければならないのはグローバリズムにおける日本語の可能性そのものだろう。

 

参考URL

liginc.co.jp