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「PARASOPHIA:京都国際芸術祭」三木学

www.parasophia.jp

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「美術館の誕生」より

「PARASOPHIA:京都国際芸術祭」の会期も残りわずかになり、ようやくメイン会場となっている京都市美術館に行くことができたので簡単に感想を書いておこう。

 

様々なレビューだけではなく、知り合いからもあまり良いという評判を聞いてなかったのだが、いざ見てみると、世界で評価されている作家が多く、全体的なクオリティはさすがに高かった。問題があるとすればやや見所が中途半端で展覧会の魅力が事前に伝わり難かったところかもしれない。

 

1、京都市美術館の建築と成り立ちなど、空間と歴史の問題を問う。

2、京都全域における、パブリックスペースや暗部に光を当てる。

 

このあたりは際立った特徴だと思うが、どちらも全体のテーマというわけではなかったので作品数が少なく、大きくプロモーションするのは難しかっただろう。特に1、2については、40組の内、事前に35組が京都に来て何等かのイベントや調査をしてもらったとのことなので、ある程度、自然な形で出来た合意だろうと思う。

 

ただ、その観点で、ちょっとベタ(露骨)にやり過ぎている作品もあり、残念ながらそれらは僕の好みではなかった。しかし、蔡國強、ヘフナー/ザックス、スーザン・フィリップスなどは、空間とパブリックスペースの問題を上手く自分の作風の中で取り入れており、レベルが高かったと思う。

 

あと、映像を使った作品の割合が多いことも指摘されていた。なかにはラグナル・キャルタソンのように6時間を超える作品もあり、1日で全部を見ることは不可能になっている(ラグナル・キャルタソンの場合は反復性があり、全部を見ることが必要な作品ではないが…)。

 

映像を使った作品が多いことが特に問題というわけではないが、順路がかなり固定的で、行ったり来たりができないような圧力が働いており、大量の映像作品をミニシアターで強制的に見せられているような気分になった。ブースの設計やゾーニングは非常に洗練されていたが、それが逆に自由度を奪っており、鑑賞者の能動的な動線を奪っているように思えた。

 

通常は入れない地下1階の空間では「美術館の誕生」という特別展示が行われており、昔の写真のスライドショーと同時に、現在も残る米軍のための靴磨きの看板を見ることがきた。そこでは、京都市美術館(元大礼記念京都美術館)の成立が昭和天皇即位を記念した奉祝事業であり、帝冠様式の独特な意匠および空間構造と、戦後における米軍の接収の痕跡を露にすることで、戦争(と反戦)をにおわせている。それに反し、展示自体は全体主義的な空間の仕切り方であるところにメッセージとメディウムとの矛盾があると感じた(あるいは空間がそのように要請したのかもしれないが)。

 

ただ、戦後の「京都アンデパンダン展」や「京都ビエンナーレ」などのスライドを流し、日本の現代美術史において重要な役割を果たしていることも示しており、再整備を行う予定の京都市美術館の歴史を再定義しようという意図は明確であったと思う。そもそも、戦前から京都市美術館は現代美術を主軸にしているという歴史があるため、その起源に遡りながら、パラソフィアを基点に「美術館の再生」を行うという裏のテーマもあるだろう。

 

それであればなおさら、映像作品が多いため(今後ますます増える)、必然的にプロジェクター同士が干渉しないよう暗闇を設けなければならないという条件があったとしても、もう少し自由な動線の設計ができなかったのか。これは再考してよい問題だろう。

 

評価できるのは、これは遠方からではなかなか参加しづらいのだが、パラソフィア(異なる側面の智慧・叡智)の名前のとおり、毎日、様々なレクチャーが行われているところだろう。しかし、それらの叡智を発信し、より議論を深めるためにも、レクチャーをネット放送するなどの工夫の余地はあったかもしれない。

 

また、もう少し現代美術に詳しくない市民に対して、開かれた教育プログラムは必要だろう。非常に難解な(背景の知識と読解を要する)作品を多く招聘しているにも関わらず、少し市民への歩みよりが少なすぎるのは気になった。今日の国際展や芸術祭において、わかる人だけ見てください、というのは少し不親切だろう。また、ほぼすべての作品が読解を必要とするにも関わらず、暗闇でのプロジェクションが多いため、無料配布されていたガイドブックを読むのが難しかったのも思わぬ欠陥だといえる。

 

個人的に、もっとも面白いと思ったのは、アフメド・マータルの《四季を通して葉は落ちる》だった。サウジアラビア出身のアーティストは、メッカ周辺の都市が急激に変容していく様子を、工事の現場に携さわる人々が撮影した携帯カメラの映像を収集、再編集して提示した。

 

多くが移民による建設労働者の視点から、メッカの都市が変容していく様子は、宗教や移民、グローバリズムなど、様々な観点から語ることが可能だ。少しプレゼンテーションの形式として未完成に思える映像や、やや政治的メッセージが直接的過ぎて鼻につく作品があるなか、秀逸だと思える作品だった。

 

最期に、まったく違う観点から、ウィリアム・ケントリッジのドローイングが面白かった。それは色の名前だ。コマ撮りの映像に挿入されているドローイングに、色だけの作品がある。そこに、ヴァン・ダイク・ブラウン(Van Dyc Brown)と書いているカラーチャートがあった。

 

アンソニー・ヴァン・ダイクはフランドル出身で17世紀にイギリスで活躍した画家であるが、肖像画に使った特徴的な茶褐色にちなんで、ヴァン・ダイク・ブラウン(Van Dyc Brown) と名付けられ絵の具が作られている。欧米ではポピュラーな色名だが、かつてイギリス統治下にあった、ウィリアム・ケントリッジの出身地である南アフリカにも普及していることを知った。色の名前から色彩の流通や覇権を考えさせられる出来事だった。このような横道の読解や知性が多く生まれていれば、展覧会は成功だったといえるかもしれない。

 

参考文献