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新たな感性と価値観の生態系「ULTRA AWARD 2016 ニュー・オーガニクス」三木学

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ULTRA AWARD 2016 Exhibition 「ニュー・オーガニクス」 11月5日~ | 京都造形芸術大学ULTRA FACTORY

2016.115~11.27

京都造形芸術大学 人間館エントランス、地勇館ほか学内各所

 

「ニュー・オーガニクス」展という学生・若手アーティストを中心とした展覧会が、京都造形芸術大学で開催されている。とはいっても卒業制作展ではない。列記とした企画展であり、キュレーターは長谷川祐子氏である。学生のアーティストを対象とした展覧会に、国際的な舞台で活躍するキュレーターが参加する展覧会は少ないだろう。

 

この企画展は、優秀な学生を集めたグループ展という意味合いもあるが、どちらかといえば、可能性の種をキュレーターが発掘し、芽吹かせるために開催されたものである。そのため、院生や卒業生も含まれるものの、すでにアーティストとして知名度のある作家はほとんどいない。

 

企画・主催しているのは、京都造形芸術大学の共通造形工房のウルトラファクトリーである。ウルトラファクトリーは学部・学科のカリキュラムとは独立した活動をしており、テクニカルスタッフが常駐する工房で、造形技術を学べたり、世界的に活躍するアーティストやクリエイターの実践的プロジェクトに参加できる形態をとっている。その一つの活動として、若手アーティストの発掘・育成事業として、独自のアートコンペティションを開催しており、本年度で7回目を迎える。

 

毎年、すでに完成された作品ではなく、作品プランを大学の教員を務めるアーティストのヤノベケンジ名和晃平などによって審査され通過した作家に、資金的、技術的支援を与えた上で、作品を完成させるというプログラムになっている。また、成果物のプロモーション支援も行っている。

 

そして昨年からは、単なるコンペティションの選抜展の枠組みを超えて、審査をすると同時に、制作指導を行い世界観を提示する展覧会を行っている。本年は昨年に引き続き、長谷川祐子氏がキュレーションを行った。昨年は若者世代の感覚である「ポスト・インターネット」であったが、今年度は「ニュー・オーガニクス」である。

 

オーガニクスは有機体という意味であるが、「ニュー」とついているように、古典的な生命現象のみを指すのではない。遺伝子編集などを行うバイオアートが近年盛んなように、アートの世界においても、有機と無機、人工と自然、リアルとバーチャルのような区分けはできなくなっており、それらを包含した新たな有機体やそれに基づく感性や価値観が育まれているのではないかという、一つの仮説である。

 

それらを体現しているような作家を中心にピックアップされている。レベルは必ずしも高くはないし、表現形態を確立している作家も少ないが、一つの生態系として見られるのは、キュレーターの作家の選択や指導、ウルトラファクトリーの技術的、広報的支援の成果が大きい。

 

僕は昨年に引き続き、作品の解説文に関して協力させてもらった。しかし、その時点では制作途上の作品も多く、完成された作品を見ていない状態だったので最終的にどうなったかが楽しみでもあり心配でもあった。僕が実際の作品を見たのは、先日、編集者、クリエイティブ・ディレクターである後藤繁雄氏の講評があったので、その評価を聞きにいったときだった。

 

例年、浅田彰遠藤水城椿昇名和晃平やなぎみわなど、著名な批評家、キュレーター、アーティストによる公開審査会が開かれており、今年も11月20日(日)14:00~から行われる予定である。後藤氏は、その日に来れないため、今年は特別一人で講評を行うことになっていた。

 

公開審査会は、豪華なメンバーであるが、一人一人の舌鋒も鋭く、喧々諤々の議論やコメントが披露される。それだけでも聞く価値があるが、審査員同士の干渉なしに、一人の意見をじっくり聞ける機会もまた貴重なものであった。

 

後藤氏の講評については、1つの見方であるし、展覧会を見る前に先入観を与える可能性があるので、今回は作家の作品の紹介をするのにとどめたい。

それでは、一人一人、紹介していこう。

 

油野愛子《Viva La Vida》

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まずは、油野愛子の作品《Viva La Vida》であるが、タイトルはスペイン語で「人生万歳」の意味であり、本人には確認していないが、フリーダ・カーロの作品からとられているのだろう。コールドプレイがアルバムタイトルに採用したことでも知られる。

作品は24台のシュレッダーを壁面上部に貼り付け、光沢性のあるさまざまなアルミホイルがランダムに裁断され、落下して降り積もる。彼女自身は「時間」や「愛」をテーマにしており、一瞬の連続である時間を、落下していくアルミホイルの断片と、降り積もる様子によって表しているといえる。

一気に裁断されるタイミングがあり、子供たちが喜んで落ちてくる裁断されたアルミホイルに近づいたり、積もっているアルミホイルを抱えるのが印象的であった。

 

藤澤かすみ《平の上の空気》

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藤澤かすみの《平の上の空気》は、人間の使った痕跡の残る、日用品の廃棄物を使い、それらをリサイクルして、全く異なる造形物を再構築している。再構築というよりは、脱構築と言った方が近い。平面や立体などの既存のフォームに従うのを嫌っており、それらにからめとられないようにしている。反対にその形態はかなりの空間を占拠し、介入し、建物に寄生している様子が印象的であった。

 

竹浦曾爾《Fight》

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竹浦曾爾の《Fight》は、動画共有サイトにたくさんアップされている「喧嘩動画」をキャプチャーし、同じ構造で再演してもらった状況を撮影している。喧嘩動画の特徴として、縦位置やぼやけたフォーカス、腰くらいからの低いポジションのアングルなどがあるらしく、それによって本当の喧嘩かどうかの真贋が見極められるという。再演された喧嘩ではなく、単なるポージングの撮影になっているため、周囲の反応がまったく無反応であるし、リアリティが感じられない。ただし、実際の喧嘩動画の周囲の反応もできるだけ関わらないように無視しようとしている場合もあり、リアリティの危うさを問うているといえる。

 浦田シオン《喧噪と囁き》

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浦田シオンの《喧噪と囁き》は、スピーカーを上に向けて、ビニールを敷いて水をため、暗い部屋中に配置したサウンドインスタレーションである。中央部には水で歪めたモノクロの映像が流れている。会場に鳴り響く気持ちの悪い轟音は、近年活発化しているデモなどの音声を加工したものである。デモは何らかの推進にせよ、反対にせよ、そこから発せられる叫びはかなり感情的で反復的であるため、類型化しているといえる。加工されたデモの音響と映像は、意味を失い、抽象化されているため、YESかNOかわからないが、感情の塊だけが抽出されているいるように思える。

 

 市川理沙《お願いしマウス》

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  市川理沙《お願いしマウス》は、石鹸で作ったネズミの彫刻作品であり、大学の男女のトイレに設置されている。かつての信仰の形態も、お伊勢参りのように物見遊山やテーマパーク的な要素があったが、現代ではディズニーランドのように、動物などのキャラクターや世界観への信仰、ロイヤリティになっている。

そのため、作品ではネズミを一つの信仰のアイコンに見立て、手を洗いながら願いを込めることを観客に要求している。観客が参加すればするほど、石鹸が使われるため変形し、ついには消えていくことになる。願いと欲望とは表裏一体であり、特に日本の伝統的な信仰においても、具象的な眷属に対しては、現世利益に近いことを祈る場合が多い。物見遊山的信仰やテーマパークでは、お土産を持ち帰ることでより絆を強めるが、ここでは消えていくことが願い欲望を可視化することになっており、信仰に対する批評的作品であるといえる。

 

檜皮一彦《object π》

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檜皮一彦の《object π》は、ウレタンで表面に無数の凹凸がついた布を、球体に巻きつけた作品で、平面とも彫刻とも言い難い形状をしている。突き詰めれば、表面・凹凸の表皮だけの作品といえ、その大きさと比較して、重さが感じられず、質感だけが浮いて感じられるのも特徴だろう。京都造形芸術大学の最も象徴的な建築である、ギリシア風の柱のある人間館のエントランス部分に設置されており、銀色の塗料が塗られているため、西日を反射し質感が変化するのも重量感を感じない要素だろう。

 

米谷絵里《追憶》

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米谷絵里の《追憶》は、日本画の手法で、一見、南国趣味的な風景を描いている。とはいえ、琳派風の意匠も見られ、針葉樹と広葉樹が混在しており、実在の風景ではないことが分かる。地理や空間の情報が無効化されて混ざっている情報空間の生態系をモデルに、写生のような日本画の伝統的技法を用いて描いたものである。ルソーのような空想の生態系といえるが、地理の延長線に空想の余地のあった時代と、現在のように仮想空間や仮想と現実の交錯した空間に、空想を求める時代の違いは大きいだろう。

 

斉藤七海《pneuma》

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斉藤七海の《pneuma》は、もともとジュエリーの専攻である斉藤が、「息」をテーマにした指輪の作品シリーズであり、息を司る人体の臓器のイメージや息が生み出す見えない形のようなものが指輪となっている。

指輪はエンゲージリングでペアになっているのだが、斉藤は人間と人間の契約ではなく、息を介した人間と植物・自然の契約と考えている。つまり、人間が吐いた息(二酸化炭素)を、自然は吸っており植物が放出した息(酸素)を、人間が吸っている。息が人間と自然が相互に生きていく契約の象徴というわけである。

指輪は、ジュエリーショップの展示のような体裁で、枝にはめられており、ディスプレイとして見ることができるのも面白いが、もう少しエンゲージリングだとわかるように、ケースに入れた指輪があってもよかっただろう。ちなみに、1つは京都造形芸術大の奥にある森の枝にはめられ、見えない契約のシンボルとなっている。

 

圓山玲《Borderline》f:id:shadowtimes:20161110163039j:plain

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 圓山玲の《Borderline》は、巨大な絵画作品であるが、一人描いたわけではない。複数の人が介入し描かれた痕跡である。その方法は、第三者に水彩絵の具を入れた水鉄砲を持たせ、圓山と対面したときに、自分との境界線だと思う地点で線を引いてもらうことである。それを何度も繰り返して絵画が出来上がる。線がぼやけているのは水彩絵の具が滲んで色が混ざっているからである。

ある種のオートマティズムとも、ハプニングの手法ともいえるが、線がはっきり見えなくなり、境界が滲んでいるのは、境界自体の曖昧さを明示しているともいえる。後藤氏は、圓山が近づいてきたとき、境界よりも親密さを感じるといい、水鉄砲がリアルな銃の意匠をしていることに対して違和感を表明していたが、それは僕も同じことを感じていた。 明確な線を引くという方向にいかなかったことからも、圓山の志向性ははっきりしているだろう。人と人の間にある距離は変動するし、対立ではなく、親密さが生まれる方法を考えるというのは、今後の1つの方向性だろう。

 

井上亜美《イノブタイーハトーブ

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井上亜美の《イノブタイーハトーブ は、映像作品とインスタレーションによって構成されいる。すでに展覧会も数多くこなし、注目され始めているアーティストである井上は、自身が猟銃の免許をとり、猪猟に従事する経験を通して作品にしている。といっても、猟によって仕留められた猪は、食べられるわけではない。

東日本大震災福島第一原発事故後の大量の放射線汚染により、福島周辺の猪は放射線レベルが食用の数値を超えており、猟をするのは増えすぎる猪を駆除するためである。

もともと井上の祖父が宮城県で猪猟をしたが、食用でなくなったということで引退している。動物を殺すのは、命を頂くのであって、生きていくための最低限でなければならない、という、祖父に受け継がれていた植物界と接するモラルは、すでに破たんしているのである。そして、井上は現在、自然界、ひいては人間界との関係がどうなっているかを確認するために、自ら猟銃の免許を取得した。

その中で、異常繁殖した猪は、福島では豚と交配してイノブタが多数生まれているという話から、井上のアトリエのある京都の子供たちに、猪猟の映像や実際のなめした皮を見せることで、猪の生きている姿を創造して描いてもらうというワークショップを開き、それらの絵画とともに展示を行っている。

それは福島のイノブタのようでもあり、また別種の空想の中のみの猪にもなっている。

テーマは深いし、それを追求する実践の在り方も面白い。またプレゼンテーションの技法も十分に洗練されているが、今回に関しては1つの作品にするには要素が多すぎるようには思えた。今後どのようにフォーカスしていくのか期待したい作家の一人である。

 

通常、学内の展覧会は、アーティストの先生が指導する場合が多いが、ウルトラアワードのように、対外的に活躍するステップにしてもらうためには、国際的なキュレーターに参加してもらうのは理想の1つだろう。

自分がどのように見られ、キュレーターからどのように判断されているかは、今後の実践においてとても付加価値の高い経験になるはずである。一方で、キュレーターの見方や価値判断から逃れたいというアーティストの意思も当然あるだろう。

キュレーターとアーティストは時に並走し、時に反発するものであるので、キュレーターの価値観や指導が必ずしもよいとは思わないが、学生や若いアーティストにとって、国内外のアーティストがたくさんいる中でのユニークさや、海外への打ち出しを常に考えているキュレーターの視点を経験するかしてないかでは大きな差が出てくることは間違いない。

作品プランからキュレーターと作り上げるという試みは、昨年と今年を経て成果があると考えた方がいだろう。作家たちの飛躍と、来年の試みを楽しみにしたい。