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誌上講評(2)「ポスト・インターネット・アートー新しいマテリアリティ、メディアリティ」三木学

大島真悟《奇跡(奴さん)》

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近似した3つの木造の彫刻に奴凧をつなぎ、体重計に乗って鑑賞するインタラクティブインスタレーション作品。

満場一致でウルトラアワードの最優秀賞を受賞した本作であるが、非常に不親切な作品であることは間違いない。しかし、60年代以降の現象学に影響を受けたコンセプチュアル・アートの文脈を知っているものならピンと来る。そういう意味では古いともいえるが、哲学的な分野で思考されていた現象学が、近年の観測器の発達による脳科学の飛躍的な進化によって、かなり科学的な解明がされてきたことによる影響は大きい。

本人は「立っていること」「認識していること」の不思議を、そのような現代アート脳科学の進化に直接的に影響を受けずに(間接的には大いに影響を受けている)、独自で思考し、奇妙な形を作り上げた。認識しずらい彫刻は、岡崎乾二郎の《あかさかみつけ》のようであるし、荒川修作やロバート・モリスらが模索した彫刻と平面の中間領域の作品にも近いものがある。
彫刻を奴凧と結びつけ、体重計で鑑賞させる行為は、荒川修作モンドリアン風のタブローを斜めに立てかけ、綱をつなげて踏絵をさせて鑑賞させる《交戦中(誰あるいは何か?)》を連想させられる。

作家は、彼らの作品を知らず(あるいは浅田彰さんの大学院の授業で教えられたかもしれないが)、試行錯誤の上にたどり着いているとことがユニークさを出している。
基本的には二足歩行と認知における絶えなまいフィードバッグを形にしたといえると思うが、奴凧をアバターと捉え、ネット空間の認知を形にしたといえなくもない。ただ、作家本人は、概ね無自覚なので、それが今後アーティストとして活動するのに、功を奏するかどうかはわからない。稀有な才能であることは間違いないので、よきギャラリーやアドバイザーに恵まれることを期待したい。

 

前谷開《My Moving Remains》

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高床式のような人間のは入れる床下を作り、そこに自分の写真作品を貼り付け、作家は床上に居ながら気配を感じさせる作品。写真は、自分の家の床下を自分が入れるくらい穴を掘り、その状況や自撮りしたものである。

自分の家の床下に穴を掘り続け、それらを写真に撮影した作品を発表していたが、長谷川さんのアドバイスにより、床下空間を作り上げて天井がから監視する形で展示された。

穴を掘るというと、まさに無意識のメタファーであり、半裸になって掘り続けている自分を含めて写真を撮影して提示するという奇妙な行為を続ける作家は、安倍公房の作品にでも出てきそうである。ただ、それを見た鑑賞者はほとんど理解不能、共有不能なので、床下に模した空間で展示されたわけだが、やや天井が高く、床下のような空間ではなため、もっと狭くかがみながらではないと入れないようにした方がよかったのではないか、という指摘が審査員からあった。

また、現代アートに詳しい人なら、画廊の床下でマスターベーションをし続け、声だけが漏れ続けるヴィトア・コンチの《シードベッド》を連想すると思うが、鑑賞者が鑑賞されるというような、他者に対する視点が作家にあまりなく、写真が奇妙なナルシスティックな鏡像にしかなっていないのが残念であった。

そもそも人に見せたいのか、自分が楽しみたいだけなのか、という根本問題を考えてから、リプレゼンテーションについて再検討した方がいいだろう。ただ、当人の嗜好がユニークであることは間違いないので、その1点でブレイクスルーすることを期待したい。

 

板木綾花《Black=Hole》

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黒地に鉛筆で即興的に描いたドローイングと、それらを複写した複数枚の写真による平面作品群。黒地に鉛筆で描くと、黒色としての鉛筆画ではく、鉛の鉱物性が浮かび上がり、光源や角度を変えると様々な形態が見え、単一光源では再現できない絵画となる。それらは単一光源の写真では再現できないので、インターネットによる無限の複製は不可能になるため、ブラックホールと名付けられている。
もともと全く違う世界観の作品を提案していたが、個人的な制作活動として続けていた鉛筆画が採用されたという経緯がある。写真による複写は、鉛筆画との差異を示すために用意されたもので、やや消化不良のところがあったが、それぞれに可能性を示せたのではないかと思う。

本人はあまり理解していなかったようであるが、同じ理屈で言えば、メタリック塗料やパールや雲母などを使った光輝性のある塗料を使えば、写真で再現するのは基本的に不可能である。乱反射したり、光源で色が変わるものは、1枚の写真で再現はできない。
だから、黒地に鉛筆で描いたから、インターネット上で複製されない絵画というわけではなく、光沢性の塗料で塗られた絵画は基本的にすべて完全な複製は無理である。しかしながら、インターネットの無限複製から逃れるために工夫し、黒地に鉛筆画を選んだのが結果的にユニークな効果をもたらしたといえる。それも作家のセンスであるし、成功しているといえる。寺社仏閣の彩色文様の仕事に従事しているという経験が生きた可能性はある。写真については、スタディが不足しているので、単品で面白いとまではいえないので、是非もう少し試行錯誤してほしい。

 

諌山元貴《スクリーン》

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焼き入れしていない陶器で作った壁に、淡いピンクと青のライティングをし、水槽の中で徐々に崩れていく様子を上映するインスタレーション作品。

元々は、花瓶などのような形のある陶器を水槽に入れて崩れていく様子を映像作品にしていたが、今回は実際の空間に壁面を作り、壁面のサイズに合わせて、壁が崩れる映像を流したインスタレーションを制作した。

壁が崩れた後に漏れ落ちる光によって、モニターやスクリーンで表象されている情報の奥みたいなものを表現したかったようだ。しかし、壁が平面的であり「崩れる」という認識は立体性があることによって成立するため、あまり壁が崩れるように見えなかったことにやや難があったように思えた。

また、審査員にも指摘されていたが、カメラのフォーカスと解像度、あるいはプロジェクターの両方の問題かもしれないが、少しボケて見えていたため、壁が崩れるという印象もボケてしまったのも問題だっただろう。4Kや8Kで撮影すればどうか?という指摘もあったが、撮影と上映サイズ、あるいは空間の間仕切りの仕方などのバランスは再考した方がいいだろう。

また、作家が説明していた、ホリゾントの効果は、色知覚で言えば、「面色」と言われる。いわゆる空のような色だけを感じる「色の現われ」である。水槽の色は「空間色」、プロジェクターが平面に映る色は「光輝」にあたるかもしれない。

このような色知覚や色の現われを追求していくのか、焼き入れてしていない陶器を水で崩していくというような形の変容を追求していくのか、あるいはその両方を合わせるのか、自分の関心がどこにあるのか再検討した方がいいだろう。

 

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