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ビジュアルレビューマガジン

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誌上講評(1)「ポスト・インターネット・アートー新しいマテリアリティ、メディアリティ」三木学

展評 アート

ULTRA AWARD 2015

京都造形芸術大学ウルトラファクトリーが主催し、東京都現代美術館チーフキュレーターの長谷川祐子さんがキュレーション及び制作指導を行った、ULTRA AWARD 2015「ポスト・インターネット・アートー新しいマテリアリティ、メディアリティ」展のレポート記事が好評だったようなので、個々の作品について分割して紹介し、個人的な講評を行いたい。これは審査員ではなく、筆者個人の意見なのであくまで参考程度であることを断っておく。ただし、個々の作家の次回作や来年のULTRA AWARD、美術・芸術大学の試みの参考になればと思う。

 

中川薫《+》

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電波を遮蔽する電車の内装を模した空間で、中央のカウンターから作家が鑑賞者と直接対話し、デジタルデトックスを促すインスタレーション作品。

ポスト・インターネット、スマートフォン時代になって、デジタル依存が加速化し、デジタル上の「つながり」という名の、相互監視や拘束が強くなっている一方、対面による直接対話が減少していることへのアンチテーゼとして、電波を遮断する空間を作り、直接対話を促すインスタレーションを展開した。

スマホに夢中になって直接対話のない電車内の奇妙な風景が創作ヒントになっているため、電車風の内装が施されている。しかし、電車はそもそも見知らぬ人々が乗り合わせる閉鎖空間であり、スマホがない時代でも家族や友が乗り合わす場合でなければ、直接対話はほとんどなかった。エレベーターも似たようなものだろう。また、ネット空間の方が対話が活発で、リアル空間の方が身体や身元が明確になるため、対話が抑制されているという現状もあり、やや単純な構図に当てはめているともいえる(ネット空間の方が議論は活発になるが攻撃的になるという逆説もある)。当人はデジタルデトックスを実現させたかったようだが、もう少しリアル、ネットにかかわらず、建設的な対話とはどういうものか、根本問題をを深く考えてもよかっただろう。

また、審査員からは、作家が利用している阪急電車を参照していると語ったことに対して、もう少し似せるべきである、とか、電車でスマホをみんなが見ている様子とサーカスが似ており(どこかつれていかれそうな点で)、サーカス風の要素も入れたと語ったことに対して似てないのではないか、とか、鑑賞者がリラックスできる空間にしたいと語ったことに対して、カウンターの位置が高すぎるのではないか、など様々な指摘があったが、空間に関して言えば、見知らぬ人が寄り添うくらいの密室空間にした方がよかっただろう。やや開放的な雰囲気が、直接対話を行いデジタルデトックスを実現するための、逆説的な閉鎖空間というコンセプトからずれてしまった感があった。

作家の過去作品は、巨大な無表情の面をかぶって、街を歩くパフォーマンス作品だったので、コミュニケーション(の成立と不成立)に一貫して興味があるようである。本作は、今までの手法とは違うので、少しハードルが高かったと思うが、関心を突き詰めて次の作品に活かして欲しい。

 

ジダーノワ・アリーナ《foz》

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暗闇の中で男女のダンサーの映像が上映され、心臓の鼓動など体内の音が流されている。

男女のダンサーは、舞踏系である。舞踏は土方巽や大野一雄ら戦後に創作したダンスの様式だがこれといった型はない。西洋的な身体からはみ出した日本人の身体や、伝統芸能的な身振り、土着性などが指摘されるが、土方巽のノートにはシュールレアリスムなど、西洋絵画をヒントに身振りを考案していることも多くみられ、「日本的」とするには早計である。

土方や大野をはじめ、天使館の笠井叡、大駱駝艦の麿赤児、天児牛大の山海塾などから、様々に派生が生まれた。発展するに従い、様々な要素が含まれているが、いわゆる西洋舞踊のような演出的な振付よりも、外部環境と内部環境の微細な動きの感知、センシングを元に即興的に動作を決定しているところに特徴があるといってもいいかもしれない(はた目から見るとほとんど動いていないときもある)。

作家は、ロシア人であるが、日本育ちであり、母語や身体感覚は日本人にきわめて近いようである。それだけに西洋人が見るオリエンタリズムとしての舞踏よりも深く共鳴しているのはわかるが、それを映像にして観客にわからすのはなかなか難しい。

映像は、ダンサーをそのまま撮影した映像と、撮影した映像を1秒30フレームでプリントアウトした上に、ドローイングが施され後、それらを再撮影した映像などが使われている。加工された映像によって、彼らがセンシングしている外部環境と内部環境を想像させようとしたのかもしれないが、やや中途半端だったかもしれない。微細なものを知覚している様子を表現したかったからか、ドローイングがあまり強調されてなかったのだが、それでは観客は全然理解できないだろう。

被写体であるダンサーを、ほとんど動いていないような物質的、彫刻的なカットを見せた上で、クローズアップ画面で微細に動いている皮膚の動きのカットを見せるなど、もう少し明確で映像的な分節化が必要だったかもしれない。そこから、フリッカーのようにドローイングを施したカットが見え隠れするなどしたら、意図は伝わっただろう。

そのためにも、ダンサーはホリゾントやバック紙のあるスタジオで撮影し、身体以外のディテイルは見えないようにした方がよかっただろう。やや床や背景の模様が目につき、日常に引き戻された。また、少し垣間見られる自主映画風の演出が気になった。反演出的な方が効果的だっただろう。次回を期待したい。

 

村上美樹《ミミズの形跡》

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布団の中に入りながら、縫い上げていき、結果的に長いミミズのような彫刻を作る作品。外側は布団の生々しさがあると、彫刻的な要素が失われるため、銀色の布でコーティングされている。また、縫っている様子は、内視鏡の映像のように、内部から撮影された映像が、外部に展示されたモニターに上映されている。

これは審査員の人たちも同じ意見であったが、内部から縫い上げたものが彫刻になるという作品は見たことがないので可能性は感じる。しかしながら、説明がないことには、布団にくるまりながら縫い上げたとは誰もわからず、モニターのプレゼンでは説明不足の感は否めない。銀色の布が適切かどうかも疑わしい。

本人は、内臓の体性感覚のようなものを表現したかったのだろうし、その試みは面白いと思う。しかし、テキストや映像などによる補足説明や、作家自体が内部で縫い続けているところを見せるパフォーマンスなどを会期中にするという方法ではそれはあまりうまくいかないだろう。

本人にも少し話したが、例えば、そのような感覚は、縫わないまでも寝袋などで経験したことがある人は多いと思うので、寝袋を縫い合わせて、途中で反転させて内側を見せた上でメビウスの輪のように循環させるなど、あくまで一つの素材で完結させた方が洗練されただろう。どちらにせよ、表現したいことも手法も面白いので、是非満足いく形になるまで追及して欲しい。 

 

虎岩慧+日惠野真生《Structure and Things》

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展覧会場に日用品を展示した上で、3DCGで制作した展覧会場の映像を上映し、双方の展示構成が交差したり、ずれたりすることで、リアルとヴァーチャルをシームレスにつなぐインスタレーション作品。展示替えが常に行われ、会場と映像が更新されていく。映像は定期的にウェブにもUPされていく。

3DCGの展覧会場の映像は、物質では不可能な速度で展示が変わり、視点もスイッチされていく。残念なのは、認知をやや超えた軽快な速度感の3DCGの映像に対して、実際の展覧会場が、重力と資金の限界でやや日常的でみすぼらしい展示のためアンマッチになっていたことだろう。

審査員からは、展示替えが中途半端に人間的で恣意的なため意図が見えない。コンピュータのアルゴリズムに沿って、人間の思考から離れるべき。下手に実際の空間に捉われて、ショールームの無数のプレゼンのようになっている、実際の空間を意識せずに架空ならではの重力に捉われない表現をすべき、などの意見があった。

個人的には、展覧会場に置かれている、日用品があまりに意図がなさすぎて、かえってやりたいことのノイズになってしまったのが失敗だったと感じた。少しおいてあった、白いキューブなどだけならもっと意図が明確になったと思う。映像と実際の空間のズレももっと微妙になり、その上での異化効果も生まれたのではないかと思う。両方で展示をするのならば、下手に日用品をトレースせず、リアルとヴァーチャルの媒介となる素材を上手く活用した方がよかっただろう。そこには可能性は感じたので次に繋げてもらいたい。

 

守屋友樹《comprssion/confloction_風景を断ち山を貫く》

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大阪から福岡までの風景を、スマートフォンのパノラマ機能で撮影し、シャッタースピードと移動距離のズレによって生じるブロックノイズと、風景を断ち切るトンネルをなぞらえた写真作品。また、大阪、福岡間の全パノラマ写真をブックレットにして机の上に展示している。

展示としては、おそらく一番完成されていた(きれいに収まっていたというべきか)。しかし、審査員の評価は辛辣なものが多かった。最終的には展示として面白いかどうか、であり、結果的に凡庸な写真にしかなっていない点、新幹線の風景を断ち切るトンネルを可視化させるという意図が一方でありながら、映像で撮影しているわけではないので、その量などが正確な情報として伝わらない点などがネックだっただろう。つまりどっちつかずだったといえる。博識で批評眼の鋭い審査員が多いだけに、美学的にも美術史的にも中途半端だった点を突かれていた。

写真を作ったアーティストとして進みたいならが、もう少し写真や映像の起源や成り立ちを勉強し、鉄道や船舶の移動による景色の変遷自体がパノラマのコンテンツだった歴史を参照しながら、ポスト・インターネット時代とどう違うのか、あるいはどうつながるのか、などを明確にしていった方がいいだろう。展示として完成させる力量はあるので、あまり最初から小さくまとまる作風にならないよう注意して次に活かしてもらいたい。

 

小中寛顕《Image(Vanitas)》《Image(Photon Flower)》

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セザンヌの《ヴァニタス》(人生の儚さや虚無を現した静止画、寓意画のジャンル、ドクロなどがモチーフになる)の画像をダウンロードし、プロジェクターで上映してピクセル風の点描画で模写した日本画の作品。もう1点は、自分が撮影した写真から点描画で模写した日本画の小作品。

こちらもわりと何が表現したいのか、という指摘が多く、コンセプトよりも、最終的に作家の美意識に流れているという指摘は多かった。しかし、浅田彰さんなどは、絵画にしてよかったというアドバイスもあったように、当初、作家が検討していたインスタレーションよりもはるかにいいものになったと思う。

作品には、鉱物などの光輝材の絵の具を含み、ライティングすると反射する日本画と、発光するモニター画面の類似性、模写されていく日本画とデジタル複製の類似性に対する批評的な意図が含まれていた。

技術的にその意図は実現できていたと思うが、《ヴァニタス》という割と重く、含みが多いテーマよりも、そのままテレビ画面などに映された映像などの模写をした方が、素直だったかもしれない。後、日本画というジャンルに意味はない、という指摘もされていたが、素材の独自性はあるし、表現としての過去の蓄積もあるので、もう少し余白を残した方法を採用し、日本美術史に対するモチーフ的、技術的引用を散りばめてもよかっただろう。ややセザンヌの《ヴァニタス》が唐突に見えたのが残念ではあった。その意味では小作品の方がまだ作家の等身大の感覚が実現されていたように思える。

これを機に今後もポスト・インターネット時代における絵画の可能性の追求を期待したい。

 

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