日本のデザインは再び立ち上がれるか?-デザインと対話「東京オリンピックとデザインの行方(11)」三木学
デザインと権利と感情 / 民意 | SPACE | VACANT
東京オリンピックエンブレムの撤回及び再コンペ問題において、日本のデザインやデザイナーの信用は失墜したといってよい。先日の東京ブランドロゴでも、ネット上で盗用疑惑が指摘され、さらに拍車がかかっている状態である。信用が失われたのは日本国民にだけではない。国際的なデザイン業界においても疑いをもたれている。その中でようやくデザイン業界で今回の起きた一連の問題をテーマに議論が行われる動きが出始めている。
信用を失っている原因は幾つかある。主要な疑念は以下に挙げられる。
1、著作権侵害など頻繁に法律を犯しているのではないか?
2、自分の頭で考えているのか?(他人の作品を分からないように盗用していただけではないのか?)
3、大手広告代理店を中心とする業界の仕組みの中で仕事を回しており、実力が伴ってないのではないか?
4、制作されたデザインは、デザイナーが得ている報酬ほどの価値があるのか?
5、業界村が存在しており、自浄努力が機能していないのではないか?
ネットを中心に言われているいわゆるパクリは、1のような著作権法や商標法を犯しているかどうかは、実はさして問題はないと思われる。実際、完全な画像の転用ではない限り、著作権侵害にはほとんどならない。
2については盗用していれば当然問題である。しかし、盗用していなくても、モダンデザインの要素を削り単純化するという思想や、使用しているソフトウェアやフォントが世界中ほぼ同じなので偶然似ることは今後も多発するだろう。コンピュータが誕生してから生まれたデザインの方が、それ以前のデザインの量よりはるかに多いだろう。それはデジカメ以前の写真よりも、デジカメ以降の写真の方がはるかに凌駕していることと同じである。生産量が飛躍的に増えているのだ。
やはり問題は3、4あたりが一番大きいだろう。つまり、実力がないので他人の作品を盗用して適当にアレンジし、自分たちでは考えられない破格の報酬を得た上、仕事や賞を関係者で回しているのではないか、と疑念を持たれているということだろう。もしそのような不当な仕事で税金から報酬を得ていたとしたらとても許せるものではない、という怒りが、炎上に拍車をかけている。
今までなぜこのようなことが起きなかったといえば、通常デザイナーは、発注を受けたクライアントと仕事をしており、国民と直接、対話することはないからである。オリンピックという国際的であると同時に国民的イベントによって初めて、デザイナーが国民と対峙するような特別なシチュエーションが生れたといえるだろう。
しかし、デザインは基本的にクライアントとの対話によって、クライアントの目的や目標をデザインによって可視化し合意形成することに意味がある。今回のように、実質、国民がクライアントの場合、必然的に国民と対話しなければならない。対話と合意形成もデザインに含まれているのである。
対話と合意形成、その結果生まれた成果物が優れたものならば(つまり実力があれば)、それに見合う報酬は得られるだろうし、それに対して文句を言われることもないだろう。大手代理店との力関係や、業界村があるかどうかは詳しく知るすべはないが、極論を言えば、プロセスと成果物がクライアントの満足を満たすものならばさして問題はないだろう。
しかし、今回のような問題が発生している以上、自分たちで問題を解決しようとする動きがまったくないとなると、近年言われている「デザインは問題解決の手段である」といったような常套句は、世間的にまったく通用しなくなるだろう。だから、一刻も早く、自分たちで問題の本質と、その解決策を発信しなければならない。少し遅かったとはいえ、そのような動きが出始めたことは歓迎すべきことである。今、試されているのは、デザイナー自身が社会の中で果たす役割をデザインすることができるかどうかであり、その成否が今後の日本のデザインの位置づけを決めることになるだろう。
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