都市の遊歩と考古学-山内 亮二写真展「Musing in the Land of Smiles」三木学
shadowtimesがフォトメールマガジンとして発行していた際、作品を紹介させていただいた山内 亮二さんが大阪ニコンサロンで展覧会をするというので最終日に見に行った。最終日は15:00までだったので滑り込んだ形だった(写真は山内さん。すでに搬出しているところを撮影させてもらった)。
山内さんは世界各地の都市を彷徨し、グローバリズムが進み均質化する都市の中で、そこに潜んでいる歴史や文化が表面に出た瞬間を上手く捉えている。そして、その手法を「都市の考古学」と名付けている。
メルマガで紹介した作品は、韓国のソウルが舞台であったが、今回はタイのバンコクとアユタヤが被写体となっている。しかし、都市化が進んでいる街では、遠目で見る限り、それがどこの国なのかわからない。看板などの文字を消してしまえばもっとわからなくなるかもしれない。写真に写っている人々も、観光客が混じっているため、アジア人の場合もあれば、西洋人の場合もある。都市と同じように人々も無国籍化しているのだ。
しかし、だからこそ山内さんも異国人としてことさら注目されることなく撮影できるともいえる。20世紀には一部の世界都市でしか可能ではなかった遊歩の実践が、世界中の街で可能になったともいえる。むしろ、異国人の観光客としてふるまった方がカメラを構えていることは不自然ではなく、カメラの暴力性も緩和される。
近年、近代化した都市にも歴史はある。時に近代化以前の都市の歴史と混ざり合うこともあれば、個人の痕跡や国家や巨大企業の痕跡が混ざり合うこともある。それらが均質化する都市の下で蠢き、ふとした瞬間に思わぬ形で顔を出す。瞬間瞬間に現れるそれらの現象を拾うためには写真という道具が最も適しているだろう。
それは、今和次郎が提唱した考現学的な視点でもある。しかし、今和次郎のように詳細にスケッチする猶予は許されないかもしれない。立ち止まることは危険を孕むことでもある。グローバリズムは、表面的には世界を均質化しているが、人々に無数の断絶を作り出し、世界全体を暴力の温床にしてしまっている。それはいつどこで暴発するかわからない。だから、時に観光客のようにふるまい、特段の関心を被写体に持たないようなふりをして、立ち現われる都市の記憶を、瞬間に採取しているといえるだろう。
そして、かき集めたイメージの集積箱から、考古学者の手つきでそれらを整理し、博物館のように展示する。フィルム写真をスキャニングして、インクジェットプリンターで出力するハイブリッドな方法は、デジタルカメラよりも分量が少ない分、じっくりイメージと向き合うには適した方法だろう。
僕は「山内さん自身の言葉でもう少し語った方がいいのではないか?」とアドバイスした。このような方法を深く読み取ってくれる人は今やずいぶんと少ない。写真家もアーティストも自ら語る時代である。しかし、日本の写真家は昔からそうだったのではないか、とも思う。語らない考古学者はいない。山内さんが自分の語り方を見出したら、イメージはもっと輝く可能性を秘めている。
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